大判例

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最高裁判所大法廷 昭和51年(行ツ)30号 判決

上告人

堀木フミ子

右訴訟代理人

井藤誉志雄

藤原精吾

前哲夫

外四六名

被上告人

兵庫県知事坂井時忠

右指定代理人

柳川俊一

外九名

右当事者間の大阪高等裁判所昭和四七年(行コ)第三二号、同四八年(行コ)第三号行政処分取消等請求控訴、同附帯控訴事件について、同裁判所が昭和五〇年一一月一〇日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告申立があり、被上告人は上告棄却の判決を求めた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人井藤誉志雄、同藤原精吾、同前哲夫、同佐伯雄三、同宮崎定邦、同堀田貢、同前田修、同木村治子、同高橋敬、同吉井正明、同田中秀雄、同持田穣、同野田底吾、同原田豊、同中村良三、同羽柴修、同山崎満幾美、同野沢涓、同小牧英夫、同山内康雄、同宮後恵喜、同大音師建三、同田中唯文、同伊東香保、同前田貢、同山平一彦、同古本英二、同前田貞夫、同川西譲、同木下元二、同垣添誠雄、同上原邦彦、同足立昌昭、同木村祐司郎、同竹内信一名義、同岩崎豊慶、同橋本敦、同西元信夫、同松本晶行、同新井章、同大森典子、同高野範城、同渡辺良夫、同四位直毅、同池田真規、同金住典子、同田中峯子、同門井節夫、同金井清吉の上告理由について

一原審の適法に確定したところによれば、本件の事実関係は次のとおりである。

上告人は、国民年金法別表記載の一級一号に該当する視力障害者で、同法に基づく障害福祉年金を受給しているものであるところ、同人は内縁の夫との間の男子堀木守(昭和三〇年五月一二日生)を右夫との離別後独力で養育してきた。上告人は、昭和四五年二月二三日、被上告人に対し、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当の受給資格について認定の請求をしたところ、被上告人は、同年三月二三日付で右請求を却下する旨の処分をし、上告人が同年五月一八日付で、被上告人に異議申立てをしたのに対し、被上告人は、同年六月九日付で、右異議申立てを棄却する旨の決定をした。その決定の理由は、上告人が障害福祉年金を受給しているので、昭和四八年法律第九三号による改正前の児童扶養手当法四条三項三号(以下「本件併給調整条項」という。)に該当し受給資格を欠くというものであつた。

二そこで、まず、本件併給調整条項が憲法二五条に違反するものでないとした原判決が同条の解釈適用を誤つたものであるかどうかについて検討する。

憲法二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、この規定が、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したものであること、また、同条二項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しているが、この規定が、同じく福祉国家の理念に基づき、社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきことを国の責務として宣言したものであること、そして、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条二項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきことは、すでに当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和二三年(れ)第二〇五号同年九月二九日大法廷判決・刑集二巻一〇号一二三五頁)。

このように、憲法二五条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない。

そこで、本件において問題とされている併給調整条項の設定について考えるのに、上告人がすでに受給している国民年金法上の障害福祉年金といい、また、上告人がその受給資格について認定の請求をした児童扶養手当といい、いずれも憲法二五条の規定の趣旨を実現する目的をもつて設定された社会保障法上の制度であり、それぞれ所定の事由に該当する者に対して年金又は手当という形で一定額の金員を支給することをその内容とするものである。ところで、児童扶養手当がいわゆる児童手当の制度を理念とし将来における右理念の実現の期待のもとに、いわばその萌芽として創設されたものであることは、立法の経過に照らし、一概に否定することのできないところではあるが、国民年金法一条、二条、五六条、六一条、児童扶養手当法一条、二条、四条の諸規定に示された障害福祉年金、母子福祉年金及び児童扶養手当の各制度の趣旨・目的及び支給要件の定めを通覧し、かつ、国民年金法六二条、六三条、六六条三項、同法施行令五条の四第三項及び児童扶養手当法五条、九条、同法施行令二条の二各所定の支給金額及び支給方法を比較対照した結果等をも参酌して判断すると、児童扶養手当は、もともと国民年金法六一条所定の母子福祉年金を補充する制度として設けられたものと見るのを相当とするのであり、児童の養育者に対する養育に伴う支出についての保障であることが明らかな児童手当法所定の児童手当とはその性格を異にし、受給者に対する所得保障である点において、前記母子福祉年金ひいては国民年金法所定の国民年金(公的年金)一般、したがつてその一種である障害福祉年金と基本的に同一の性格を有するもの、と見るのがむしろ自然である。そして、一般に、社会保障法制上、同一人に同一の性格を有する二以上の公的年金が支給されることとなるべき、いわゆる複数事故において、そのそれぞれの事故それ自体としては支給原因である稼得能力の喪失又は低下をもたらすものであつても、事故が二以上重なつたからといつて稼得能力の喪失又は低下の程度が必ずしも事故の数に比例して増加するといえないことは明らかである。このような場合について、社会保障給付の全般的公平を図るため公的年金相互間における併給調整を行うかどうかは、さきに述べたところにより、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。また、この種の立法における給付額の決定も、立法政策上の裁量事項であり、それが低額であるからといつて当然に憲法二五条違反に結びつくものということはできない。

以上の次第であるから、本件併給調整条項が憲法二五条に違反して無効であるとする上告人の主張を排斥した原判決は、結局において正当というべきである。(なお、児童扶養手当法は、その後の改正により右障害福祉年金と老齢福祉年金の二種類の福祉年金について児童扶養手当との併給を認めるに至つたが、これは前記立法政策上の裁量の範囲における改定措置と見るべきであり、このことによつて前記判断が左右されるわけのものではない。)

三次に、本件併給調整条項が上告人のような地位にある者に対してその受給する障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁じたことが憲法一四条及び一三条に違反するかどうかについて見るのに、憲法二五条の規定の要請にこたえて制定された法令において、受給者の範囲、支給要件、支給金額等につきなんら合理的理由のない不当な差別的取扱をしたり、あるいは個人の尊厳を毀損するような内容の定めを設けているときは、別に所論指摘の憲法一四条及び一三条違反の問題を生じうることは否定しえないところである。しかしながら、本件併給調整条項の適用により、上告人のように障害福祉年金を受けることができる地位にある者とそのような地位にない者との間に児童扶養手当の受給に関して差別を生ずることになるとしても、さきに説示したところに加えて原判決の指摘した諸点、とりわけ身体障害者、母子に対する諸施策及び生活保護制度の存在などに照らして総合的に判断すると、右差別がなんら合理的理由のない不当なものであるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。また、本件併給調整条項が児童の個人としての尊厳を害し、憲法一三条に違反する恣意的かつ不合理な立法であるといえないことも、上来説示したところに徴して明らかであるから、この点に関する上告人の主張も理由がない。

以上の次第であるから、論旨は、いずれも採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(服部髙顯 団藤重光 藤﨑萬里 本山亨 中村治朗 横井大三 木下忠良 鹽野宜慶 伊藤正己 宮﨑梧一 寺田治郎 谷口正孝 大橋進 栗本一夫)

上告代理人井藤誉志雄、同藤原精吾、同佐伯雄三、同宮崎定邦、同堀田貢、同前田修、同木村治子、同高橋敬、同吉井正明、同田中秀雄、同持田穣、同野田底吾、同原田豊、同中村良三、同羽柴修、同山崎満幾美、同野沢涓、同小牧英夫、同山内康雄、同宮後恵喜、同大音師建三、同田中唯文、同伊東香保、同前田貢、同山平一彦、同古本英二、同前田貞夫、同川西譲、同本下元二、同垣添誠雄、同上原邦彦、同足立昌昭、同木村祐司郎、同竹内信一、同岩崎豊慶、同橋本敦、同西元信夫、同松本晶行、同新井章、同大森典子、同高野範城、同渡辺良夫、同四位直毅、同池田真規、同金住典子の上告理由

第一、序論

一、第一審における審理経過

二、第一審判決と世論、学界の支持

三、被上告人の控訴に至る経過

四、原審における審理経過と問題点

第二、総論――原判決の根本的誤り

一、上告人の主張の要点

二、原判決の根本的誤り

第三、原判決の憲法二五条解釈・適用の誤り

一、憲法二五条解釈の誤り

(一) 憲法二五条一、二項を分断する解釈の誤り

(1) 原判決の二五条解釈

(2) 原判決の憲法解釈が誤てる所以

(3) 障害福祉年金、児童扶養手当と憲法二五条

(二) 憲法二五条の裁判規範性にかんする解釈の誤り

(1) 原判決の解釈

(2) 二五条の裁判規範としての内容

(三) 原判決には判断遺脱、理由不備の違法がある

二、憲法二五条適用の誤り

(一) 併給禁止条項が憲法二五条一項に違反しないとした誤り

(1) 「生活保障」「経済保障」論の誤り

(2) 最低生活保障と年金

(二) 併給禁止条項の現実的意味とその違憲性

(1) 障害福祉年金受給者の生活実態と障害福祉年金の役割

(2) 母子家庭の生活実態と児童扶養手当の役割

(3) 重度障害者母子世帯の生活実態と併給禁止のもたらす現実的不合理

(4) まとめ

(三) 併給禁止条項の違憲性

(1) その違憲性

(2) 生活保護の存在は併給禁止の違憲性をいささかも軽減しない

(3) 「財源の限界」を併給禁止の理由とすることの誤り

第四、原判決の憲法一四条解釈・適用の誤り

一、原判決の判示

二、憲法一四条解釈の誤り

三、憲法一四条適用の誤り

(一) 合理性判断の基準

(二) 各理由の検討

(1) 原判決は児童扶養手当制度の趣旨を誤解している

(2) 「稼得能力低下喪失」論の誤り

(3) 無拠出制を理由に本件併給禁止を合理的とする誤り

(4) 「国民感情」を併給禁止の理由とする誤り

(5) 他の社会福祉制度の存在を併給禁止の合理性の根拠にすることの誤り

(6) 生活保護制度があるごとを併給禁止の合理的理由とする誤り

四、結論

第五、児童扶養手当法の解釈の誤り

一、原判決の性格づけとその理由

二、「立法の経緯」についての誤解

三、母子状態=稼得能力低下喪失論の誤り

四、法の明文の極端な軽視

五、上告人の根拠づけについての判断の欠落

六、児童扶養手当は家族手当=児童手当の一種である

七、児童扶養手当は防貧的給付ではない

第六、原判決の憲法一三条解釈・適用の誤り

第一、序論

一、第一審における審理経過

(一) 生別母子世帯などに支給される児童扶養手当の制度が始まつたのは昭和三七年である。小さい頃病気で失明し、夫とも離婚した後、女の細腕で二人の子供を養つていた上告人は、児童扶養手当のことを教えられ、よろこんで申請した。ところが窓口である福祉事務所で受付けてもらうこと自体がなかなかできず、一人歩きも不自由な身体で何回も通つて、やつと受付けてもらつた結果が一片の不支給通知であつた。上告人は子供の将来のこと、法律の矛盾していること、今までの苦労などを考え、何回もためらつたあげくついに裁判を起す決意を固めたのである。

(二) こうして始まつた堀木訴訟は、昭和四五年一〇月八日を第一回として、同四七年六月一四日の結審まで一一回の口頭弁論が開かれ、その間、口頭主義をつらぬき、録音機の使用を認め、障害者がひとしく持つているはずの裁判を受ける権利を具体的に保障することとなつた。

第一審において、上告人側は、苦しい障害者や母子家庭の生活実態を明らかにすることに力を入れ、上告人側の証人の殆んどは、障害者ならびに母子家庭の生活実態を明らかにするためのものであつたが、それらの証言が、判決の中に結実されている。

二、第一審判決と世論、学界の支持

第一審判決は国民の要求に合致した画期的な内容であつた。障害者、母子家庭の生活実態をつぶさに検討し、「原告は自己の障害それ自体と、児童の監護という二重の負担を負つているもので、法律によつて手当の支給を拒否されている当該女性の被差別感は、極めて大なるものであることが容易に感得されるとともに、その被差別感は、一般社会人をしてたやすく首肯させ、同感させるに足るものである」として児童扶養手当法の本件併給禁止条項を違憲であると判断した。判決当日の夕刊には各社が第一面で第一審判決を報じ、第一審裁判官の勇断をたたえていた。

(一) 世論の支持

昭和四五年七月、兵庫視力障害者を守る会の人たちに支えられ、全盲の一人のお母さんの訴えによつて始まつた本件訴訟は、第一審判決を契機に、全国に支援の輪が広がつていつた。兵庫、大阪、京都、名古屋、東京等と各地で「堀木訴訟支援する会」が結成され、昭和四九年九月一日、支援運動の中央組織である「堀木訴訟中央対策協議会」が結成された。右中央対策協議会は、昭和五〇年二月末より三月一〇日の控訴審の第一二回公判にむけて、東京、神奈川、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、兵庫、大阪と「堀木訴訟勝利、国民の福祉を守る大行進」が行われ、各地で集会のとり組が行われるなど成功に終つた。行進へのとり組みから、日教組が、運動への支援を決議し、公正裁判を求める署名も、個人署名約七万、団体署名も、中央団体約四〇、地方団体約二〇〇も集まつた。

第一審判決直後の昭和四七年一〇月一一日には、社会保障関係の学者一三四名からなる原判決支持、控訴取下げのアッピール(甲第二七号証)が採択され、同五〇年九月二六日に、兵庫県に在住、在勤する医師、弁護士、作家、牧師、作曲家、バレリーナなど巾広い文化人一三〇氏が、「堀木訴訟の控訴棄却を求める兵庫県文化人アッピール」を発表し、続いて、名古屋の知識人、文化人が同旨のアッピールを発表した。

一方、兵庫県議会は、昭和四七年一〇月九日、全会一致で一審判決を支持し、「この判決を広い視野にわたつて受け止め、福祉政策全体について再検討するとともに、各種年金、手当の併給制限について法律改正を含む改善をおこなわれるよう強く要望する」決議をなし、昭和五〇年三月一五日、京都府議会においても、原判決を支持し、政府はすみやかに控訴を取下げるべきであるとする決議を採択し、地方自治法九九条二項による意見書として、内閣総理大臣、法務大臣および厚生大臣に提出したのである。

このように、第一審判決に対する国民の支持は、形に残るものだけをみても圧倒的なものである。原判決が、「一般国民感情が未だ併給を当然視する迄に至つていないこと」を差別の合理性の根拠の一つにしているが、国民感情は明らかに第一審判決を支持しているのであり、右のような判示をなしたということは控訴審の裁判官の目が、被上告人側にのみ向けられ、上告人の主張を真面目に検討しようとする意思を、当初より持つていなかつたのではないかと疑わせるものがある。

(二) 学説の支持

第一審判決に対する法律学者による評論ならびに解説は次のとおり数多くあるが、第一審判決の結論を支持しないものはない。

森順次 ジュリスト昭和四七年度重要判例解説九

今村成和 判例評論六八五号一六九頁

佐藤進 ジュリスト五二二号九二頁

河野正輝 法律のひろば二五巻一六〜二〇頁

角田豊 季刊労働法八六号七三頁

林弘子 日本労働法学会誌四一号一三九頁

我妻栄 法律学全集「法学概論」三五〇頁

このように第一審判決が、世論ならびに学界の支持が得られたのは、何といつても併給が国民のニードに合致し、第一審裁判官が、障害者、母子家庭の生活実態に素直に耳をかたむけ、裁判官の良心と独立を守り、裁判所が「憲法の番人」であるということを国民の前に明らかにしたからである。

三、被上告人の控訴に至る経過

(一) 被上告人は控訴期限の最終日に控訴の手続をとつた。その経過は次のとおりである。

被上告人は、第一審判決に対する世論、学界の支持に押されてか、法務大臣に対しても控訴したくない旨の意思を次のようにのべている。

「障害福祉年金を受給している者に対して児童扶養手当を支給することが、その後の社会情勢の推移等からみても必要であり、また、他の公的年金の併給制度のあり方についても再検討を加えられるとともに、これらの公的年金が併給できるような法改正等を行う必要があると考えられる。

判決内容からみてもわかるとおり、この事件は堀木文子個人の経済的な事情を考慮した判決であり、実情もそのとおりであるので、控訴をしないことが社会のニードにもあい、かつ、一審判決をもつて確定させたとしても、児童扶養手当法第四条第三項第三号の規定全部が憲法違反となるものではなく、現行制度が根本的にくつがえることとはならないので、控訴しないことが適当と思料される。」(乙第一〇号証)

しかし、被上告人は、控訴期限の最終日に、法務大臣の指揮権発動により、右控訴したくない真意に反し、やむなく控訴の手続をとつたのである。そして、控訴の手続をとつた日、堀木訴訟に関する知事談話を発表し、「県としては、この事務が国の機関委任事務である以上、国の意思に従い止むを得ず控訴にふみ切らざるを得なかつた。憲法上の問題は別として、こうした障害者に対する福祉を充実する観点から児童扶養手当と障害福祉年金との併給についてはひきつゞき国に対し強く法律の改正を要望してまいりたい。県としては、法改正までの措置として見舞金を支給することとする。」(甲第二八号証)とのべ、自らの控訴したくないという意思がふみにじられたことを県民の前に明らかにし、その後も、被上告人は随想の中で、法務大臣の控訴の指示に従わざるを得なかつた心境を「盲目の障害者である堀木さんが、かよわい女手ひとつで子供を育てなければならない実情は、まことに同情にたえないものがあつた。なんとか救済の方法はないものかと、真剣に思案した。……この問題を本質的に解決するにはどうしても法の改正を求める以外にないと判断して、政府に対し、強くその要望をつゞけたが、実現しないうちに、この判決となつてしまつた。判決を受けた当事者として、なんともやりきれない複雑な感情の交錯を、どうすることもできなかつた。一審判決に対し“控訴すべきか否か”についても、ずいぶん悩んだ。法務省、厚生省には、強硬に県の意向を述べて善処方を迫つたが、“国会の議決を経て制定された法律が、違憲だとの判決には、控訴せざるをえない”との政府見解を覆えしえず、万やむをえず、その指示に従わざるを得なかつた。」とのべている。

このように、被上告人自身の真意に反し、本件控訴審ははじまつたのである。

(二) このようにして本件控訴は始まつたが、被上告人は、控訴したその日の知事談話(甲第二八号証)で述べたように一審判決後直ちに兵庫県は「児童扶養見舞金支給要綱」(甲第三〇号証)を制定し、実質的に手当の併給を認める措置をとり、立法府においても、一審判決後三ケ月を経ずして併給禁止を一部撤廃する旨を発表し(甲第三一号証)、法案作成のうえ昭和四八年通常国会へ上程され(甲第三二号証)、同年九月二六日法改正が成立し同年一〇月一日より施行されるようになつた。被上告人はもとよりのこと、立法府においても、一審判決の内容を正当と認めたうえで、一審判決の意をうけ、単に上告人との関係だけでなく、広く一般に一審判決の趣旨を実現させたわけである。併給禁止を定めた法律そのものが改正により消滅し、制度全体としてみれば、既に問題が解決してしまつていると考えられるのに、ひとり上告人の受給資格のみを争うというのは、被上告人自身が、広く世間に表明してきた態度と明らかに矛盾するのみならず、公益を代表する機関のとるべき態度として許されるべきものではない。

しかるに被上告人は違憲の判断を受けたという形式的面子にのみこだわり、実質的には争う利益もないのに無用な争いを続け控訴の取下げに応じようとせず、貧困と差別に耐え、一日も早い解決を望んでいる上告人を今日まで不当に苦しめてきたのである。

四、原審における審理経過と問題点

(一) 原審では、昭和四八年二月一四日を第一回として、昭和五〇年七月一四日の結審まで、一四回の口頭弁論が開かれ、第一審と同様、口頭主義をつらぬき、大法廷の使用、録音機の使用、盲導犬の入廷、手話通訳も認められた。しかし、裁判所の審理態度は、まさに控訴人側にのみ顔を向けたようなものであつた。

被控訴人側は、第一審と同様、障害者、母子家庭の生活実態を明らかにし、その中で併給禁止条項がどのような役割を果しているのかを明らかにすることを中心的に立証してきた。ところが堀木さんと同じように全盲で子供を育てている飯田ますみ証人の申請に際しては、控訴人側の態度を気にし、採用をしぶり、採用にあたつては時間を制限し、尋問に際しては、時間ばかり気にして、あげくのはては尋問を制限するという有様であつた。裁判所のこのような態度から原判決は予測できないことではなかつた。果して原判決は、生活実態には一べつもくれないものであつた。

(二) 原判決は後に詳述するように、障害者、母子家庭の生活実態から目をふさぎ、財源を理由に時の政府の都合を重視するもので、政府の低福祉政策を追認するものである。

判決の日の各新聞は、「弱者に厳しい判決――福祉恩恵論に立つ」(朝日新聞)「渦巻く怒り、失望……」(神戸新聞)「身障者に冷たい壁」(読売新聞)と既に法改正され、争う利益がなく、国自身も第一審判決の正当性を認めているのに、原判決が第一審判決をくつがえしたことは、その内容の官僚的思弁と相まつて世論の支持するところではないことを報じている。

上告人自身も原判決に対し、「法廷で裁判長の読まれる判決を聞いていて、私は冷酷で胸にこたえるものを感じました。同じ負かすにしてももう少しやり方があるはずです。『年金と手当を併給すると、二重三重の支給になり、かえつて不公平になる』といわれたことに、私はどうしても納得できません」と悲しみの中から、非人間的な原判決に対し上告する決意をしたのである。上告審においては、憲法の精神を守りなる程と納得のできる判決をしてほしいというのが、上告人をはじめ国民の切なる願いである。

第二、総論――原判決の根本的誤り

一、上告人の主張の要点

上告人は本訴提起以来、児童扶養手当が健常な母子には支給され、上告人のような障害母子には支給されないということが、一片の合理性も見られない不合理な差別であることを一貫して訴えてきた。本件併給禁止がきわめて不合理な差別的取扱いであることは、常識的にも生活実態からも、万人の認めるところである。これを一審判決は正当に認め、憲法一四条一項に違反すると判示したのであつた。また、このような併給禁止は個人の尊重、幸福追求の権利(憲法一三条)に発する生存権(憲法二五条)に対する侵害であるというべきである。しかるに原判決は、法の明文と、健全な常識に反し、多くの証人や書証によつて明らかにされた障害者、母子家庭のきびしい生活実態に敢えて目をつぶり、併給禁止は立法裁量の問題にすぎないと判示したのである。

二、原判決の根本的誤り

(一) 原判決は憲法二五条の解釈にあたり、独自の一、二項分断的解釈論を採り、同条二項の法規範性を骨抜きにし、無制約に等しい立法裁量を認めてしまつたこと。

(二) 上告人ら重度障害者の生活実態と、そこにおける障害福祉年金、児童扶養手当の実際的な意味、効用を全く顧みず、現実離れの抽象的な建前論のみで、本件併給禁止の「合理性」を認定してしまつたこと。

(三) 法の明文にもさからつて、児童扶養手当が児童が健やかに育てられる権利を保障するものであることを否定し、児童扶養手当の性格についての認識を誤つたこと。

において根本的な誤りを犯している。

もちろん法律が違憲であるということは重大なことである。しかし、法律によつて国民の基本的人権が侵害されることは、もつと重大なことである。貴裁判所は基本的人権尊重を原理とする憲法に従い、一切の法令の審査をなす終審裁判所であることに鑑み、本件においても虚心に憲法の意を体して、明快なる判断を賜りたい。

第三、原判決の憲法二五条解釈適用の誤り

一、憲法二五条解釈の誤り

(一) 憲法二五条一、二項を分断する解釈の誤り

(1) 原判決の二五条解釈

原判決は、憲法二五条一項では国民が生存権を有することを総則的に規定し、同条二項は一項から生ずる国の義務として、各種の社会立法によつて国民の健康で文化的な最低生活を保障すべきことを規定しているとの上告人の主張を排斥し、同条一項の総則的性格を否定し、「本条第二項は国の事前の積極的防貧施策をなすべき努力義務のあることを、同第一項を第二項の防貧施策の実施にも拘らず、なお落ちこぼれた者に対し、国は事後的、補足的且つ個別的な救貧施策をなすべき責務のあることを各宣言したものである」と解している。

そして、二五条一項=救貧=公的扶助(生活保護)、二五条二項=防貧=公的年金制度(および児童扶養手当制度その他)と図式的に二分し、前者については国のなすべき程度について憲法の要請にもとづく絶対的基準が存するが、福祉年金や児童扶養手当については国がその内容を定めるについて憲法上の基準は何ら存しないから、それがどのように定められようと憲法二五条違反の問題は生ぜず、また憲法一四条違反の有無の審査にあたつても国(立法府)の裁量が尊重されるべきである、という。

しかしながら、このような解釈は、憲法二五条一、二項の趣旨に対する根本的な誤解にもとづくものであり、民事訴訟法三九四条に基き破棄を免れない。

(2) 原判決の憲法解釈が誤てる所以

原判決の憲法二五条にかんする右のような解釈は、本件併給禁止条項が憲法二五条に違反しないという結論を導かんがために考案せられた全く独自の所説であつて、最高裁判所の判例にも抵触し、その誤りは、同条にかんする学説や同条の立法経過に照らしても明らかである。

(イ) 判例

最判昭二三・九・二九・刑集二巻一〇号一二三五頁

東京地判昭三五・一〇・一九・判時二四一号二頁

東京地判昭四三・七・一五・判時五二三号二一頁

東京地判昭四九・四・二四・判時七四〇号二五頁

(ロ) 学説

「註解日本国憲法」(上巻四九〇〜四九一頁)は、「本条第一項は、すべての国民に生存権を保障しているが、……『直接』に本条により生存権確保のための国の責務として――すべてがその本源を、ここにもつことは当然のことであるが――、問題となることは、一方においては、労働能力のないものに対する国の責務であり、他方においては、必ずしも当然に労働と結びつかないでも考えられるところの、国民一般について生存権の保障である。本条第二項は、かかる意味の生存権保障のため、国のとるべき措置と責務とを明らかにしたものと解すべきである。」「そこで直接的な生存権の確保のために、本条第二項の『社会福祉』の向上及び増進としては、両親がこれを扶養しえぬ場合、及び扶養者がない場合ということになる。かかる場合の生活扶助・医療等については、生活保護法(……)がすでに定められており、」と述べ、宮沢俊義「憲法」コンメンタール(二六六頁)もまた、「本項(憲法第二五条第二項)は、第一項と相まつて、憲法が社会国家の理念に立ち、国民生活の保障をもつて国の任務であり、責務であるとしていることを宣明したものと解される。」「生活保護法(……)や、社会福祉事業法(……)や、児童福祉法(……)や、優生保護法(……)は、いずれも、かような(憲法第二五条第二項にいう)『社会福祉』の『向上及び増進』を目的とする法律である。」とし、清宮四郎。佐藤功編「憲法演習」(六〇頁)は、より明瞭に、「いうまでもなくこの両項は一体不可分の関係にある。すなわちすでに説明したように、第一項の権利は当然に第二項の趣旨を内包するものであり、第一項の権利が権利たる所以は国が第二項の努力を義務づけられていることにある。すなわち仮りに第二五条が第一項のみより成り、第二項を欠いているとしても、国は当然に第二項の定める努力をしなければならないのである。」と説いているのである。

ほかにも同旨の学説としては、

佐藤功 「ポケット註釈」憲法一七七頁

有斐閣雙書 「社会保障法」八五頁 林古賀 「現代社会保障法論」二四頁

などがある。

要するに、これらの学説は一致して、同条一、二項が不可分一体に把えられるべきことを指摘し、同条二項にもとずいて定立された「社会福祉、社会保障及び公衆衛生」などのすべての施策について、同条第一項の理念や趣意が妥当すべき所以を明らかにしているのである。

(ハ) 立法の経過

また、右の理は、同条項の立法の経緯からも十分に裏づけられるところである。すなわち、前記「註解」によれば、

「政府の原案第二三条においては、『法律は、すべての生活部面について、社会の福祉、生活の保障及び増進のために立案されなければならない』とあつたのが衆議院において、本条のように改められ、その修正案が認められたものである。修正の理由としては、原案第二五条で勤労の権利を認め、この勤労権は『民衆に一定の生活水準を保障し、ひいては国民の文化生活水準を高めようとするもの』であり、この点については、原案第二三条があるが、その辞句には『多少意をつくさない憾がある如く考えられる』ので、『一層明白に個人の生活権を認める趣旨』であるとされている。即ち原案は、将来における立法の指針としてのみ生存権の保障を宣言していたのに対し、修正案は、これを正面から、すべての国民の側について規定し且つ国が、単に立法のみならず『すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならぬ』として、国家の側における保障的裏づけを定めている点において、前述の積極的意味内容をもつた生存権の概念を認めるものであることを明確にしている。」(四八四〜四八五頁)

というのである。

右の経緯からも明らかなように、憲法第二五条二項(ただし原案では二三条)のみでは「意をつくさない憾がある如く考えられる」ので、一層その趣旨を明白にし、国民個々人の生存権を明確に保障する意味合いから、同条一項を挿入することとなつたのであつて、その意味で両項は一体不可分であり、原判決のごとく両項がそれぞれ相掩わぬ独自の意義をもつものと解する余地はないといわねばならない。

(3) 障害福祉年金、児童扶養手当と憲法二五条

以上のごとくして、憲法二五条二項にいわゆる「社会保障」の措置の一として定立された障害福祉年金や児童扶養手当の制度に対しても、同条一項の趣旨や理念が及ぶことはもはや疑いを容れぬところであつて、国が右制度を定立することについてはなんらの憲法的基準は存在せず、いかにそれが定立されようとも同法二五条違反の問題は生ずる由がないとする原判決の判示が同条の趣旨を解せぬ暴論たることは明らかである。

児童扶養手当制度について、厚生省児童家庭局長も次のように述べ、上告人の主張する解釈が正当であることを裏づけている。「この法律は、憲法二五条に規定する理念に基づく旨の明文規定はないが、同条第一項の規定の趣旨を第二項の規定に基づいて実現したものといえる。」(甲第六六号証「児童扶養手当法、特別児童扶養手当等の支給に関する法律の解釈と運用」一二頁)それ故、これらの制度は、憲法二五条一項の定める生存権保障の理念を具体的に実現するための社会的施策の一つであるから、これが同条項にいわゆる国民の健康で文化的な最低限度の生活の保障を制度本来の目的として定立されていると解して、何らの不都合はない。また、そうとすれば、右手当制度の運営がかかる制度本来の目的に副うべくなされるのは、理の当然であつて、手当の支給対象額、支給方法などすべての面にわたり、国民の生存権保障の趣旨に照らして点検や改善の努力が払われるべきことは多言を要しない。もつとも憲法二五条にもとづいてなされる社会的諸施策は多岐多様にわたつており、その中には、施策の必要の緊急度や性格内容からして直ちにかつ自足的に最低生活の保障の実現を目的としたもの(たとえば生活保護制度)もあれば、比較的長期の見透しのもとに定型的な給付を通じて最低水準以上の生活保障の実現を目的とするもの(たとえば国民年金制度)もあり、その性質は決して一様ではない。しかしながらさればといつてこれらの施策のうちで、憲法二五条一項の定める理念と関わりなしに運営することが許されるものは存しないのであつて、原判決の判示に則していえば、障害福祉年金や児童扶養手当が障害者や母子家庭の最低生活の保障を『直接の目的として』いようといまいと、これが憲法二五条を指導理念としてこれら国民の健康で文化的な生活の保障の実現を本来の目的としており、この目的にそつて運営されるべき性格のものであることに、変りはないのである。原判決は上告人の主張の意味をはき違え、それが指摘した問題点について正しくこたえていない。というのは、上告人は本件障害福祉年金ならびに児童扶養手当の目的について、それが憲法二五条の理念にもとづいて障害者及び母子家庭の児童に健康で文化的な最低限度の生活を保障しようとすることにあると主張してきたが、その趣旨は、右年金がかような生活の保障を本来の目的として設定されたものであること、そして少くともかような生活の保障を目指して運営されるべきことの指摘にあつたのであつて、それ以上に直ちにかつ自足的に右の生活を保障することを制度の目的とする旨を主張したことはなかつた(原審第八準備書面一二四頁以下参照)。

(二) 憲法二五条の裁判規範性にかんする解釈の誤り

(1) 原判決の解釈

原判決は前項で述べたとおり憲法二五条の一項と二項とを分断する独自の解釈を展開するのであるが、その上に立つて、一項にかんしては「健康で文化的な最低生活の保障」という絶対的基準の確保を直接の目的とした施策をなすべき責務があるのに対し、二項は「生活水準の向上につき、財政との関連において、できる限りの努力」をすればよいのだから、同条に基いて定立される法律制度については、その給付要件、対象、額などをいかに定めるかはすべて立法政策の問題であるという。そしてこのような立法政策に属する事項については、原則として違憲問題を生じる余地がなく、ただ例外として立法府の判断が恣意的なものであつて、国民の生活水準を後退させることが明らかなような施策をし、裁量権の行使を著しく誤り裁量権の範囲を逸脱したような場合のみ憲法二五条二項に反し、司法審査に服する、という。

しかし右解釈は、憲法二五条の裁判規範性を誤解したものであり、かつ同条一項が公的扶助(生活保護)を除く他の社会保障制度には及ばないとした点でも誤つている。

(2) 二五条の裁判規範としての内容

法令や処分が憲法二五条に違反して無効となるのは、法令や処分の内容が恣意的で明らかに合理性を欠き、立法府が裁量権の行使を著しく誤つた場合はもとよりであるが、それだけにとどまらない。

もし国が憲法二五条の規定するところに従いとるべき施策をとらなかつたり、その施策として定め又は行なうすべての法律、処分等がこの条規の意味するところを正しく実現するものでないときは本条の要請をみたさないものとして憲法二五条に違反するものと考えられるし、もし国あるいは立法府が、この生存権の実現に努力すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような法令を制定し、あるいは行為をするときは、かかる法令や行為は憲法二五条に違反し、無効と解しなければならない(東京地判昭三五・一〇・一九・朝日訴訟第一審判決・註解日本国憲法(上)、五四一頁、佐藤功「日本国憲法概説(全訂新版)」二二〇頁、同「憲法演習」六三頁など多数)。

原判決は右の点においても、憲法二五条の解釈を誤つている。

(三) 原判決には判断遺脱、理由不備の違法がある

原判決は、憲法二五条一、二項を分断し、障害福祉年金や児童扶養手当が、障害者や母子家庭の最低生活保障を「直接の目的としていない」とすることによつて、併給禁止の違憲審査(憲法二五条一項適否)を実質的に回避し、併給禁止による手当受給権の一方的はく奪を正当化した。

しかし、右判決の判断過程において原判決は、第一に、憲法二五条の解釈を誤つたのみならず、右法解釈を誤つた結果、「本件併給禁止は同条一項にはなんら関りがない」と手当の併給禁止が憲法二五条一項に違反するや否やの判断をなさず、判断遺脱、理由不備の違法(民訴法三九五条六号)をも犯している。

二、憲法二五条適用の誤り

原判決は本件併給禁止条項の違憲性を判断するにあたつて、児童扶養手当制度にかんしてはそもそも憲法二五条一項が適用されず、右併給禁止条項は同条同項に違反する余地がない、とする点において、及び、併給禁止条項の法制上および実際上の意義を見誤まり、憲法二五条に違反しないとした点において、憲法二五条の適用を誤まつている。

(一) 併給禁止条項が、憲法二五条一項に違反しないとした誤り

(1) 「生活保障」「経済保障」論の誤り

原判決の右誤まりの沿源は、前述した憲法二五条一、二項分断論に由来するのであるが一方、併給禁止条項の違憲性を判断するにあたつて、社会保障制度を「生活保障」と「経済保障」に二分し、障害福祉年金や児童扶養手当を「経済保障」なる範疇に区分し、これにかんしては憲法二五条一項の適用を否定した点においても重大な誤りを犯している。

判決のように社会保障制度を「生活保障」と「経済保障」に二分する考え方は、学問上もまた実際上も全く根拠がない。判決は、健康で文化的な「最低生活保障」の役割を担うのは救貧施策としての生活保護の制度であり、かつそれのみであるという国際的にも通用せず、また現実的にも容認し難い前提を固執したうえこれを「生活保障」の制度と名づける。そしてこれ以外の所得保障の制度、主として公的年金、手当の制度は「経済保障」と名づけることによつて、「健康で文化的な最低生活保障とは無関係」として、憲法二五条一項の適用を排除したのである。

原判決の右の結論は、社会保障制度、とりわけ最低生活保障の制度にかんする事実ないし経験則につき重大な誤りに基づくものである。

(2) 最低生活保障と年金

「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の解釈にあたつて、「最低生活の保障」を直ちに公的扶助と結びつけ、それが永久不変の建前であるとすることは誤りである。

(イ) 国の施策による最低生活保障の制度は、イギリスの社会保険の制度としてはじめて本格的に具体化された。「最低生活保障水準」とは「社会福祉辞典」(誠信書房刊中村優一ほか編)によると、「社会保障制度によつて国家的に最低生活を保障する水準で、この意味では、単に人間の肉体的生理的水準でなく、社会的文化的生活を維持できるものでなければならない。出発点は、ベバリッジ・プランによるイギリス国家が国民に対して保障しようとした水準を示す。」とされる。さらに、同辞典の「ベバリッジ報告書」の項を参照すると、「社会保障とは窮乏に対する闘いであり、所得の喪失、中断および特別の出費に対し、均一拠出均一給付の原則に基づき全国民に権利として、最低生活を保障する。その方法は基本的ニードに応える総合的社会保険、その補充として国家扶助で行なう。さらには包括的な医療サービス、児童手当および完全雇用制度を前提条件とし、それらによつてナショナル・ミニマムを確保しようとした」(傍点筆者)と述べている。

(ロ) 原審における角田証言およびそこで触れられたILO四七号および六〇号勧告(甲第六二号証)においても、年金が最低生活を保障するに足るべきものであることが述べられており、国際的に見ても、年金の制度こそが最低生活保障制度の根幹をなすものであることを否定する余地はない。

即ち、一九三三年のILOの「障害・老令ならびに寡婦および孤児保険の一般原則に関する勧告」(四三号)が、まず拠出制年金について、老令年金の額・障害年金および遺族年金の最低額は、いずれも「生活費を正当に考慮して定め」なければならないとした(同勧告Ⅱ年金のうち、B老令年金、13(a)、C障害年金17(a)、D遺族年金22(a))うえ、年金の停止又は減額に関する規定について「障害又は老令年金が他の年金に対する競合的権源の存在以外の理由に依り停止せらるる場合においては、年金を停止せらるる者の被扶養者たる家族は、年金の全部又は一部に均しき生計手当を支給せらるべし」(同勧告、Ⅱ年金、E年金の停止又は減額に関する規定、29)」と定めた。

そして、一九四四年には、ILOの「所得保障勧告」(六七号)は無拠出制年金(勧告では(特別)生活維持手当と呼ぶ)について、次のような、一般指導原則および適用のための提案を示した。

「障害者・老令者および寡婦であつて、自身又はその夫が強制的に保険にかけられない故に、社会保険給付を受けず、かつその所得が所定水準を超えない者は、所定率の特別生活維持手当を受ける権利を持たなければならない。(以上一般指導原則)、……生活維持手当は、長期間の生活維持を充分に確保するに充分でなければならない。生活維持手当は、現在の生活費に従つて変化すべく、且つ都会と地方との間に差別を設けることができる(以上、適用のための提案)」(同勧告、適用のための提案を伴う指導原則、Ⅱ社会扶助(社会救済)、B貧困な障害者・老令者および寡婦の生活維持、29)。

以上にみたように、国際的には、ILO四三号、六八号勧告によつて拠出制のみならず、無拠出制の年金についても生活保障の原則がうちだされたのである。そして、現在においては、経済大国となつた日本ももちろん含めて、先進工業国は、ILO条約だけでなく、ILO勧告のレベルまで関係国内法規の水準を改善することが当然の責務となつていることは、わが国自身、昭和四九年六月七日、業務災害給付条約(一九六四年、一二一号)の批准手続きをとりながら、昭和四九年一二月、大体一二一号勧告レベルにまで、労災保険法の改正を行なつたことでも明らかであろう。

更に、一九五三年に五九カ国が参加した国際社会保障会議で採択された国際社会保障綱領を具体化した。一九六一年の社会保障憲章においても、「保障すべき水準は、必要にしてかつ充分なものでなければならない」旨を宣言するのである(児島証言)。

このように、年金などの生活保障の原則は、国際常識として、ILO勧告などに規範化されており、年金、手当の給付要件、内容が、憲法二五条一項によつて規律されねばならないことを、この面からも裏づけている。

(ハ) わが国の社会保障制度も、右の歴史的および国際的な制度のすう勢と無縁ではあり得ない。たしかに、戦後の混乱期において、生活保護の制度が特段の緊急性をもつて創設(昭和二一年)された後、国民皆年金の制度が一応確立する昭和三五年まで、相当のずれがあつたが、それ以後数次の答申や改善を経て、次第に年金制度の生活保障における比重は増してきたのであつた(その間、生活保護制度の方は、後述するように、相対的な比重を低めてきた)のである。

昭和四八年の社会保険制度審議会の答申に示された考え方として、年金額は就業労働者の標準報酬月額の六割を確保すべしとして、「生活できる年金」によつて、年金制度を国民の生活保障の中軸に位置づけられるにふさわしい額にしようという努力がなされている。

現実に、厚生白書(昭和四七年版一六頁、乙第一四号証)によると、厚生年金について、年金受給者の約七〇%までが年金の大部分を日常生活費にあてていることが明らかとなつている。家計費五万円未満の世帯では、この割合が八〇%にものぼる。他の年金についてはまだこのような調査は見あたらないが、厳しい所得制限によりとりわけ低所得者を対象にした福祉年金受給者については、より一層この傾向が強まり、年金は受給者の日常生活費の不可欠の一部を占めるものであろうことは想像に難くない。

社会保障法の学者は、児童扶養手当や福祉年金の制度を、資力調査を要件としない、無拠出制の定額給付を定める点で「社会手当」とか「社会援護」とか「社会扶助」とか呼んで、社会保険と公的扶助の中間に一つの範ちゆうを設けてこれに分類する。

角田豊 「社会保障法の課題と展望」一三頁六八頁

佐藤進 「社会保障の法体系・上」二〇九頁

林古賀 「現代社会保障法論」一九五頁

小川他編 「現代法と労働」(岩波現代法講座10)中の佐藤論文

成田他 「行政法講座・下」一六三頁

社会保障学者である近藤文二氏も、大内兵衛編「戦後における社会保障の展開」のなかで、無拠出制の年金や手当は、防貧(社会保険の性格)というよりはむしろ、救貧(公的扶助の性格)の制度であり、それは生活保護の延長というべきものであるとさえ主張される。

また厚生省年金局編「国民年金の歩み、昭和三四〜三六年」においても「無拠出制の年金は、いわば公的扶助的色彩のきわめて強い制度であるということができる」(同書一六五頁)と卒直に認めている。

老令福祉年金の夫婦受給制限の合理性をめぐつて争われた、いわゆる牧野訴訟で、国側は老令福祉年金が「防貧」的性格のものであることを理由に夫婦受給による減額を根拠づけようとしたが、裁判所は、「(老令福祉年金は)老令者に対する公的扶助的性格の強いものであることは否定できず、被告の主張は、憲法二五条二項の理念ならびに老令者の生活の実態に照し、正当でないというべきである」と判示した(東京地判昭四三・七・一五、判時五二三号二一頁)。

無拠出制の年金や手当を国が支給するのは、きわめて不十分な給付額であつても、それがなければ「健康で文化的な最低限度の生活」を営み得ない国民の生活実態があるからである。

(ニ) このような動向と関連して、生活保護制度を解体する次のような動きもある。

一九七一年五月、社会福祉事業法改正研究作業委員会から出された、「福祉事務所の将来はいかにあるべきか――昭和六〇年を目標とする福祉センター構想」は公的扶助の今後の展望について、次のように指摘している。

「15、わが国における年金制度の成熟は昭和九〇年をまたなければならないとされているが、それ以前の段階においても年金を中心とする所得維持の政策が広がり、公的扶助は年金給付を受けてもなお最低生活を維持できない人たちのための補助給付的な制度に変つていくことがまず考えられる。」

「16、第二に基本的な方向として考えられることは、現行公的扶助の内容を各種所得維持制度に分解し、制度上解体していく方向である。」

「……将来の基本的な方向としては生活困難者を一括して生活保護法で取り扱うよりも老令、母子、障害者等対象別にナショナル・ミニマムを設定し、各々の実情に即した年金、手当を中心とする所得保障体系を整備する方が対象者にとつて望ましいと考えられる。つまり実質的には生活保護制度の解体ということになるであろう。」と。

われわれは、ここで示唆された生活保護解体論を支持することはできない。しかし、公的年金や手当の制度が国民の最低生活保障の根幹をなしつつある現状がここには明確に述べられている。

(3) 以上のように、生活保護制度と年金手当制度とを分断し、後者を「経済保障」と名づけて憲法二五条一項にいう「最低生活保障」と何らかかわりがないなどという原判決の誤りは明白である。従つて本件併給禁止条項が憲法二五条一項に違反するか否かが、年金・手当の趣旨およびこれを受ける国民の生活実態に照らして審査されなければならない。

しかるに原判決は、本件にはそもそも憲法二五条一項を適用する余地がないとして、右審査を省略し、合憲判断をなした。この点において原判決には明確な憲法適用の誤りがある。

(二) 併給禁止条項の現実的意味とその違憲性

本件併給禁止条項の憲法適否の判断をなすには、すでに述べたような憲法二五条の裁判規範性を検討すると共に、障害福祉年金受給者で、かつ(併給禁止条項該当の点は別として)児童扶養手当受給の資格を備えている国民の生活実態に照らし、併給禁止が果たして憲法二五条の定める規範に反するや否やを検討しなければならない。

すなわち、憲法二五条により本件併給禁止の適否を判断するには、併給禁止の合理性を裏づける立法事実の存否が審理の対象となり、重度障害者および母子家庭の生活実態を検討することを避ける余地はない。

また原判決のように、「給付行政にかんする法律を違憲無効であると判断するためには、立法府が恣意によるなどして判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白」である必要があるというならば、なお更、右の生活実態における本件併給禁止のもつ現実的意味ないし効果を顧みることが重要である。

(1) 障害福祉年金受給者の生活実態と障害福祉年金の役割

障害福祉年金は、次の場合に支給される。

① 拠出制の障害年金の支給要件を満たすために必要な保険料を納付しなかつた被保険者等であつて、保険料免除期間等所定の要件を満たした者が、日常生活の用を弁ずることが不能な程度の廃疾の状態にあるとき。

② 二〇歳に達する前に障害にかかつた者が①に掲げる程度の廃疾状態にあるとき。

③ 昭和三四年一一月一日前に障害にかかつた者が同日若しくは同日以後において①に掲げる程度の廃疾の状態にあるとき、又は同日以後昭和三六年四月一日前に障害にかかつた者が同程度の廃疾の状態にあるとき、又は昭和三六年四月一日において五〇歳をこえる者が同日以後障害にかかり同程度の廃疾の状態にあるとき。

①及び②は補完的障害福祉年金といわれるものであり、③は経過的障害福祉年金といわれるものである。

拠出制の障害年金のいわば裏にあたる補完的障害福祉年金の対象に、②のように二〇歳前に障害にかかつた者を含めた趣旨は、次の理由による。すなわち、若年において重度の障害にあることは、通常その障害が回復することはきわめて困難であり、したがつて稼働能力はほとんど永久的に奪われていると考えるのが常識的である。他方、年齢的にみても親の扶養を受ける程度をできるだけ少なくしなければならないし、この意味から所得保障の必要度はこのような者にこそ最も高い。しかもかかる事例は、恒常的に発生するのである。

障害福祉年金受給者であるということは、障害者のなかでも重度の障害をもち、かつ極めて低い所得水準にあるということをものがたる。障害福祉年金受給者の生活実態の具体的な理解に資するため、まず身体障害者全般の生活実態についてのべ、ついで、重度障害者の生活実態についてのべる。

(イ) 身障者の生活実態について

① 肉体に障害があることによつて生じる社会的ハンディキャップとしては、大きくわけて、三種類のものに分けられる。すなわち、第一に身障者は、働く機会が保障されておらぬか、或いはその機会が著しく狭められている。第二にその必然的結果として、所得が低くきわめて生活が困難である。第三に経済的以外の面で人手をかりなければ、自立してゆけない(児島証言)。こうしたハンディキャップに対し、社会的配慮がなされることが、社会保障の原点といえる。

② 昭和四五年、厚生省が行なつた全国身体障害者(児)実態調査によると、同年一〇月一日現在の身体障害者(児)は一四〇万七八〇〇人で、このうち一八才以上の身体障害者は一三一万四〇〇〇人、一八才未満の障害児は九万三八〇〇人と推計されている。

これら障害者を主な障害別にみると、肢体不自由が七六万三九〇〇人と全体の半数を占め、次いで視覚障害が二二万三六〇〇人(うち障害者二一万八〇〇〇人、児は五六〇〇人)で、全体の約一六%となつている。

そして、これら視覚障害者(一八才以上)のうち、両眼の視力の和が0.01以下の一級障害者が七万五〇〇〇人、両眼の視力の和が0.02以上、0.04以下の二級障害者は三万八〇〇〇人で、重度障害といわれるこれら障害者が視覚障害者全体の約51.9%を占めているのである。

更に障害福祉年金受給対象者である、一〜二級の身障者は、三四万九〇〇〇人であり、全障害者の26.5%を占めている(甲第三八号証)。前記厚生省の調査によれば、前回昭和四〇年調査比において、総数で二六万六〇〇〇人増加(25.4%増加率)しており、その増加分の障害原因を調べると、交通事故によるものが著しく、前記五年間に増加した身障者の十人に一人は交通事故によるものといえ(甲第九号証)、もはや身障者問題が、国民の一部の問題としてではなく、社会問題化した一つの必然的要素がある。

③ 身障者の就業状況について

身障者で就業しているものは、五七万九〇〇〇人で、全体の44.1%にすぎず、一般の就業率は68.8%(総理府労働力調査昭和四五年一〇月)と比べると24.7%も低くなつている。しかも就業といつても常用労働者として就業している比率は、身障者の場合三八%にすぎず、一般の59.6%よりははるかに低い状態である(甲三七号証の三)。身障者の就業上の地位別に見た場合、全体では雇い人なしの自営業主が35.4%に達し一番多い。すなわち、身障者一人で仕立業とか小売販売といつた細々とその日の生計をたてていると考えられる。さらに家族従事者が11.3%にものぼり、この方面でも零細な家内労働に従事しているのであつて、身障者の就業率が44.1%といつても実際には、一般との格差がもつと大きいと考えられる。一方、一〇〇〇人以上の企業又は官庁に勤務するものは、全体の7.8%にすぎない(以上甲第三八号証)。わが国の身障者の雇用に関しては、身障者雇用促進法がその中心的な制度であり、同法により官庁企業は一定率の身障者を雇用することを要求されているが(国、地方公共団体に対し、1.7%、三公社従業等1.6%、特殊法人1.6%、民間企業1.3%)、しかしこの比率は、それ自体西欧諸国と比べ著しい低水準にある。例えば、英国では三%、ドイツに至つては重労働部門四%、軽労働部門では二四%と定めておりしかもそれらの国においては、わが国が雇用促進法の雇用率を単に努力目標にしているのに比べ、いづれも罰則でその強制をしていることが特色である(甲第三七号証、児島証言)。

しかも前記のごとき低水準の雇用率さえもほとんど企業・官庁において遵守されておらず、神戸職業安定所の調査(甲第四三号証)によれば、四八年九月現在で、民間企業の達成率は僅か50.5%にすぎず、しかも鉄鋼・造船といつた大手企業の場合、自社の労災事故者を多数かかえることにより雇用率が高くなつているのみで、実際身障者の新規採用といつたことは、零に等しい。このことは神戸市のみでなく全国的傾向といえる。例えば、京都では一〇〇〇人以上の企業では、八三%が身障者を新に雇うことはしないという内規を持つている(第一審における田中証言)。

④ 身障者の所得が低く生活が苦しい実態

前記のごとき身障者の劣悪な就業状況は、その結果として必然的に所得が極度に低いという生活苦の問題を引き起こす。原審法廷において上告人本人がのべた「結局お金さえあつたら……」という悲痛な叫びの中にわが国の社会保障と、身障者の苦しい生活現状に対する鋭い告発があるといえる。

(Ⅰ) 身障者の収入、支出の面については後記「重度身障者の生活実態」において詳しく述べるので、ここでは身障者の生活保護受給の現状についてふれる。

全国の身障者のうち生活保護を受けているものは、前記昭和四五年の厚生省の調査によれば八万七〇〇〇人で、全障害者の6.6%である。これは、調査日現在における全国民の保護率が1.29%(人口一〇〇人対比)約五倍の高率であり、しかも全国の保護率は昭和四〇年から四五年にかけて、1.63%から1.29%と低下しているのに対し、身障者の場合逆にその期間に6.0%から6.6%に増加しており(以上甲第九一号証)、一層窮乏化が進んでいるといえる。ちなみに生保受給者において、身障者、母子、老令、傷病者世帯が昭和四三年で全体の73.8%、同五〇年における厚生省の見通しとし87.8%に及ぶものと見られ(甲第三九号証の一)、このことからも身障者、母子世帯の貧困化が増々深刻になつてきていると云える。被保護世帯の消費水準を一般勤労世帯の消費水準と対比すると一九六五〜六九年東京都の場合で、前者は後者の約半分の水準にしかすぎない(厚生省の調査による。甲第一〇号証の三、九九頁、甲第一六号証の二、三五一頁)。

(Ⅱ) 年金受給者数についてみると、身障者全体の約一六%(昭和四五年現在)が、障害福祉年金を受給しているが、実際は受給権者は当時一級障害者に限られており、その中では五〇%が受給している。当時の本人収入の所得制限が年間僅か三二万円にすぎず、それにもかかわらずこのような高率になること自体、生活保護受給者層と障害福祉年金受給者層が原判決がいうように別個なものでなく交錯していることが明らかである。

⑤ その他、身障者の経済面以外のハンディキャップ

身障者の場合、経済的な面以外に自立的に生活を営むことが困難であるというハンディキャップが多数ある。例えば、上告人のような視力障害者の場合、最近のように街の構造が変化すると一人歩くこと自体困難であるし、あるいは車いすなどの使用者が街を歩くことになると歩道橋は大きな壁となり、乗物に乗るにも人手をかりねばならないというごとくである。

(ロ) 重度身体障害者世帯の生活実態――一〜二級の障害福祉年金支給対象者を中心にして――

① 重度障害者の就業状況について

重度障害者の定義としては、一応国民年金法別表一級〜二級とし、〔甲第五七号証(重度身体障害者の実態―京都市重度身体障害者実態調査報告)を援用する場合は、特に三級障害者をも含めていることに注意〕身体障害者手帳の給付を受けている者に限る。

わが国全体で重度障害者は、前記昭和四五年一〇月現在身障者のうち、三四万九〇〇〇人で、全身障者の26.5%を占めている(甲第三八号証の一)。

これ等の就業率は当然のことながら、前記身障者一般のそれより更に低く、昭和四七年三月末現在、30.5%にすぎず、東京都の調査によれば27.3%と更に低下する(昭和四七年七月現在)(甲第五四号証五七頁上段)。

身障者問題は重度障害者も含めて基本的には労働問題といえる。それにもかかわらず、身障者の「働きたい」という希望が社会的に押しつぶされているのが現状である。

(Ⅰ) さて、業務内容を見ると、職域が極度に狭く、しかも零細企業に固定されていることが特徴である。

視力障害者の場合、“あんま・マッサージ・はり灸”といつたいわゆる三療従事者が、就業者の全体の八〇%を超えており(甲第五二号証表九)、そのほとんどが自営業であるが、最近の交通ラッシュ等からその職場からしめだしをくつているのが実情であり、三療の仕事の需要地域が観光地に変つてきた場合、視力障害者はその地域に住居移転あるいは通勤の困難性のために、そうした職場からも追われることになり、又特に最近晴眼者の三療進出により圧迫されている。国立視力障害センターの報告によれば、一九六〇年二万八〇〇〇人の三療従事者が、一九六五年には一万九〇〇〇人に減少しており、この五年間にほぼ三人に一人が仕事を追われている状況である。そうした人達にとつて新たな就職先は何ら保障されていないことが更に重要な問題である(第一審における田中証言)。

このことは視力障害者のみならず、肢体障害者等についても当てはまる。極零細業種ともいえる服の仕立て、ミシン縫製加工、タイプ写植等に限られ、職域が非常に狭い(甲第五二号証第九表)。

(Ⅱ) 労働条件も悪く、賃金についてみると、「東京都における重度視覚障害者の実態」(甲第一二号証の二、四五頁)によれば、昭和四三年現在で視力障害者就業者の一カ月収入状況は、二万円以上三万円未満の者が全体の26.8%、一万円以上二万円未満の者が二〇%、一万円未満の者が4.4%となつている。就業者全体の半数以上が三万円未満という低い収入である。この調査が指摘するように他の障害者と比べて比較的安定した収入を得ている視力障害者においてこの有様である。

また、京都市重度身体障害者実態報告(甲第五七号証)によれば、昭和四八年二月現在においても右の傾向は変つていない。すなわち右報告書六一頁によれば、三万円以上五万円未満が全体の26.4%で一番多く、次いで五万円以上七万円未満が19.6%、一万円以上三万円未満が16.6%等で、結局全体の半数が昭和四八年二月現在五万円未満の収入しか得ていない。ちなみに生活保護基準についてみると一級地(京都市)で標準世帯(四人世帯、三五才男子、三〇才女子、九才男児、四才女児)の場合、同時期をとれば五万五七五円となつており、身障者の収入の低さを物語る。

(Ⅲ) しかも単に低賃金というのみならず、重度身障者に対する差別的低賃金であることが特色である。第一審岡村証人の場合、そのことを何より明確にあらわしている。「岡村さんは重症やからうちでしか働かれへん。簡単によそへ変るわけにもいかんだろう……ということでボーナスが勤めて四年になるのに僅か三〇〇〇円だつたのです。ところがちよつと障害の軽い人がその年の四月に入つてきたのですが、七〇〇〇円支払つて、岡村さんは少々少くてもがまんしよるやろう……」と差別されて、同証人はそこをやめたという。この事実一つみても重度障害者の劣悪な労働条件をうかがうに充分である。

身障者は特別な権利を要求しているのではなく、ただ人間として平等に生きたい、働きたい、学びたいということを求めているのであるが、それすらも実現されていないのが現状である。

② 重度障害者の経済面以外のハンディキャップ

(Ⅰ) わが国においては、重度身障者はその他の身障者の持たされているハンディキャップを集中的に担わされているといえる。たとえば、住宅問題一つをとつた場合について、身体障害を理由に入居拒否された事例が約一六%にものぼつている(甲第五二号証表七六)。入居を認められる場合でも視力障害者に対する偏見から「火を使わない」とか「炊事をしない」あるいは兄弟が近くに居て見張りをすることを条件とするといつた不当な要求をされている(甲第五三号証四頁)。また風呂、便所等は身障者の利用にはなんら考慮がはらわれないまま放置されているのが実情である。

一歩街にでれば、交通事情の悪さ、或いは、街の構造自体身障者に対して従来何の考慮もはらわれていなかつた。甲第五七号証の京都市実態調査報告によれば(九九頁)、一カ月中に外出を全くしない者14.4%、一〜三回16.5%となつており、三〇%以上の人が一カ月に三回以下の外出しかしていないのである。しかも外出時の支障では「人の目が気になる」(八%)というよりも階段四五%、陸橋四四%、乗物三八%が支障として大きく、外出しない人は外出したがらないのではなく、街の構造が外出の妨げとなつている(同二六頁)。ここにも貧困な社会保障と身障者の実態が浮きぼりになつている。

(Ⅱ) 重度障害者については、日常生活において介護が必要になつてくるが、その範囲は食事から歩行に至る広範囲に及んでいる。前記の京都市の実態報告書(甲第五七号証九三頁)により、比較的一、二級の身障者の多い脳性マヒについて、全面介護の必要のある人の比率をみると、「食事」14.5%、用便19.6%、衣服着脱22.5%、入浴27.9%、歩行30.5%、筆記38.0%、話文章の理解26.6%、言語25.3%となつている。同報告書によれば、その他の障害者も含めて全体の五九%の人が介護を必要としている。一方介護の状況を見ると八〇%が家族の介護を受けており、しかも全体の一四%の人が介護を必要としながら、介護者が全くいないといつた状態におかれている(甲第五七号証二四頁)。

(Ⅲ) 同報告書二四頁によれば、重度障害者は、劣悪な生活条件の下で健康状態まで侵されている。内部障害者では七二%、複合障害者では四〇%が「病弱」と答えており、肢体障害者・複合障害者のそれぞれ二四%、三四%が治療中であり、しかも治療が必要だが治療さえも行えないものが肢体障害者一八%、複合障害者で一九%の高率を示しており(甲第五七号証二四頁)、一般国民について厚生白書によれば92.1%が病気がないといつているのに(田中証言)比べれば、ここでも身障者の“いのち”の保障がなされていない現実がある。

(Ⅳ) わが国の遅れた社会保障制度の中で、結局そのしわよせは身障者とその家族に集中的にあらわれている。国際通念からいつても社会保障は相互扶助ではないとの考え方が定着しているにもかかわらず、わが国の場合依然として家族の相互扶助に身障者の生存を依存させている。しかも、一九六〇年代高度経済成長政策の中で、一方では人口の都市集中、核家族化による大家族制度の崩壊現象の中で身障者家族の貧困は更に倍加している。

その行きつくところが“障害者殺し”という悲惨な形で集約される。

「盲の夫(七三才)病妻(七二才)を絞殺」(甲第四六号証)「寝たきり四一年の息子ふびん――母が殺す。自分も後を追う」(甲第四七号証)「昭和四七年の一〇月にやはりこれも東京北区で高根藤吉さんというおじいさんが三七才の脳性マヒの息子さんのふだん世話していたお母さんが入院してしまつたのでやはり自分も老令になる、息子はもう大きくなつて運んだりするのにもいちいちトイレなんかにつれていかなければならないのですから体力も弱まつているし、経済力も弱つているということで首をしめて殺してしまつた事件」(児島証言)といつた事例は枚挙にいとまがない。こうした事件が年間六〇件程度あると推定されている(右同)。しかるに責任を問われるのは、子殺しの親のみであり、真の原因である社会保障の立ち遅れは常に免罪されているのである。

このような重度障害者の生活状況に対して障害福祉年金はどのような役割を果しているか。あるいは果すことを期待されているか。

(ハ) 障害福祉年金受給とその役割について

前記東京都の報告書(甲第一二号証の二、三三頁)によれば、視力障害者のうち51.7%が障害福祉年金を受給しており、京都市の調査(甲第五七号証表四〜一四を一、二級身障者の数で割る)によつても一、二級障害者の44.6%が受給していることになる。

生活の苦しい身障者の障害福祉年金に対する期待はきわめて大きい。出生時に脳性マヒとなり、以後四一才に至る今日まで全く歩いたことのない重度身障者である宮尾修氏の、昭和四九年一二月一三日付朝日新聞投書欄に掲載された三木総理大臣に対する訴えは、全身障者の切実な声を代弁している。

「……(私は)日常生活のすべてにわたり介護されないと生きられない状態にある。……歴代の自民党政府はこれらの身体の不自由な人たち、周囲から厄介視され、偏見と窮乏の中にあえぐ人たちにいつたい何をしてくれたか。……中略……

私はこの一〇月妻を得て独立した。だが生活を維持していくにはそれを支える収入が必要である。しかし私には、一万一三〇〇円の福祉年金以外、自分の収入といえるものは全くない。やむなく親の援助を受けているが、その親自身いつ死ぬかわからない老人である。せめて福祉年金でも増額されれば救われるのだが、政府は毎年支給額を常に低水準にとどめたままだ、昨年末福祉予算の充実を要求した身障者の代表を迎えた大蔵省主計官は「無拠出の福祉年金が少ないのは当然である」厚生大臣すら「これ以上出せぬ。へんな期待はやめた方がいい」と答えている……政治家も役人も私達身障者を虫けら同然に考えているということであつた。うわべは何といおうと内心では福祉に税金をつかうのはむだだと思つているのだ。

――中略――(三木氏の福祉優先の言葉にウソがないならば)先ず第一に身障者の窮状に目を向けていただきたい。そして、福祉年金の引き上げ(最低月額三万円)と介護手当の支給だけでも予算で実施してもらいたい。……いかなる重い障害者といえども国民として当然の権利は保障されなければならないはずだ。……この程度の対応がなされなかつたならば、身障者の怨と不信、そして深い絶望感は消えないであろう」(甲第五六号証抜スイ)

これは当面三木総理に向けられた訴えであると同時に身障者の生きる権利を求めているこの堀木訴訟を審議しておられる裁判所に対する問いかけでもある。

ちなみに障害福祉年金額は、昭和三四年二月発足時月額一五〇〇円、『提訴時二九〇〇円であり、昭和五〇年一〇月以降でも一級障害者月額一八〇〇〇円、二級障害者一二〇〇〇円である。

上記のごとき身障者の生活状況を考えあわせるとき、障害福祉年金と児童扶養手当の併給が「二重三重の保障になる」などという原判決の判断が事実に眼をそむけた空論であることは、今さら論議するまでもないことといえよう。

原判決は、障害福祉年金(児童扶養手当についても同様)を身障者(児のときは母子状態)の稼得能力の喪失低下の面においてのみとらえているが、身障者の経済生活を見る場合単に稼得能力の面からのみ把握することによつては決して真実の生活状態を見ることはできない。身障者は前記のごとく低所得の現実にみられるごとく稼得能力を喪失或いは低下させられているが、他方障害があるために、余分な支出を余儀なくさせられており、その意味では身障者は稼得能力の面と必要経費の面でのハンディは倍加された苦しい経済生活を強いられている。

甲第五一ないし五三号証の身障者調査委員会の調査によつてもそのことは明確に指摘できる。甲第五二号証表三六によれば「障害があるための余分な支出があるか」の問いに対し「なし」と答えたものがわずか15.9%で他は何かの形での支出増を訴えている。そのなかで支出の多いのは「タクシー代」63.8%、「電話代」43.5%、「補助具・補装具」の費用27.5%、その他「医療費」「手引・代筆など他人への謝礼」等が支出増の原因としてあげられている。第一審における糸洲証言によれば「結局ぼくらの場合は、ちよつとでると目的地をなかなか捜すことができないということで目的地までタクシーに乗つて運転手さんに捜してもらわねばいかんことが多いので、そういう面の出費があります」また岡村証言も「市場に行くにも近所の人に頼んだりいろいろ近所のお世話があるからやはりお礼をせなあかんし」「電話代に毎月五、六〇〇〇円はいります」「補装具についても三年に一回はかえる必要があり現在の収入では自己負担がある」と具体的事実をあげてそのことを述べている。この点に関し、被上告人側証人として立つた安藤証人は「一般世帯の実支出金額よりも心身障害者のおられる世帯の平均値のほうが低い実支出が出ている」統計をもとにして、前記のごときタクシー代による出費のかさむ面は認めながら、逆に「支出のかさまない面があるのではないか」との推定の下に「日常生活費については相殺される」といつた暴論を吐いている。しかし、前記実態調査によれば「ほんとうは支出したいががまんしているもの」として「営業のための施設・器機の改善」「テープレコーダー・ラジオ・ステレオの購入」(視力障害者)といつたものから「衣類」「入浴」「医療費」(同三十表)といつた生存の最低条件ともいえるものにまで及んでいる。「収入がないからがまんしている状況を余分な支出がないとはとうてい私は言えない」との住谷証言を待つまでもなく、こうした非人間的発想が根底となつて防貧的施策と救貧的施策の峻別を云々する原判決の誤りはますますあきらかになつている。

福祉年金等の使途についても前記身障者委員会の調査によれば(甲第五二号証表四二)、もつとも多いのが「生活費の一部に当てる」で五七%、「ふだん買えないものを買う」一四%、「貯金」をしているものが二六%と案外多いが、貯金をしているのは決して余裕があるからではなく脳性マヒによる障害者とか女子の障害世帯など障害者の中でも低所得層において高率を占めており、「収入が不足している場合貯金を引出して使う」が四〇%もあつたことと対比して考えると社会保障給付が余りにも劣悪なため自衛措置として一時貯金しているにすぎないのである(甲第五四号証六五頁)。以上のことからみても障害福祉年金は、一般の貧困世帯とはまた違つた特徴を持つ重度身障者層に対して、最低生活保障の一部としての役割をはたしているということができ、原判決のように「障害福祉年金と児童扶養手当を併給することは二重三重の保障になる」といつた余裕のある給付ではまつたくないことが明らかである。

(2) 母子家庭の生活実態と児童扶養手当の役割

(イ) 死別もしくは離別によつて夫を失つた母子家庭は、厚生省「全国母子世帯実態調査」(昭和四八年)によれば全国で、六二万六二〇〇世帯であり、全世帯の1.9%を数える(甲第七一号証婦人白書)。これは、昭和四二年の同じく厚生省の行つた実態調査によれば、全国に約五二万三〇〇〇世帯で全世帯の1.57%(甲第一六号証の三)となつているからこの間に一〇万三二〇〇世帯約二〇%増加していることがうかがわれる。

(ロ) 昭和四八年の右調査によれば母子家庭において、母親が就労の中心となつている世帯は、全体の86.7%であり、わが国の婦人の賃金が男子に比べ著しく低く、全世帯の63.5%が年収六〇万円以下(月額五万円以下)である。この金額は昭和四二年の調査のとき約五〇%が月額五万円以下であつたことと対比すれば(甲第一六号証の三)この六年間に、物価の上昇率を考えるとむしろ後退しているといえる。

(ハ) 従つて生保受給率も昭和四八年の調査によれば12.3%(昭和四二年は10.6%)と増加傾向にあり、子供をかかえた母子世帯の生活は貧困状態を超えて極貧状態であるといえる。

これらの母子家庭の生活は、昭和四四年一二月一日現在京都府が行つた母子世帯実態調査報告書(甲第一四号証)によれば「やや苦しい」者39.8%、「とても苦しい」者が24.1%あり、生活の苦しさを訴えている者が全体の63.9%にも及んでいる。

母子家庭の母の職業は、小規模の企業につとめるものが多く、常用率は43.5%にすぎず、日雇・パートなどの不安定な状態の雇用が、全体の四分の一に達しており、低収入・子供の育児等のため母親の三人に一人は健康に問題があるという結果がでている(甲第七一号証)。

(ニ) こうした母子家庭において子供を育てるうえでは当時二一〇〇円と額は少いといえ児童扶養手当(支給額は昭和四九年九月から児童一人の場合月額九八〇〇円、第二子には八〇〇円加算、第三子以降は四〇〇円加算)は欠くことのできないものといえる。

原判決は児童の扶養のためには児童手当があるというが、わが国の児童手当制度は昭和四七年一月から実施されたが、現在第三子以降の児童(義務教育終了前)のみを対象に支給されることになつており、わが国において義務教育前の子供を三人以上育てることのできる世帯はかえつて所得に余裕のある世帯が多いといわれており、その意味では母子世帯にとつて児童手当を受給することの可能な世帯は極少数に限られており、かかる実態から見ても児童扶養手当が児童手当の役割を現実にはたしていることが明らかである。

児童扶養手当制度の趣旨については、別項で述べるところであるが、立法理由として「政府はかねて児童の福祉政策の充実に努めてまいつたのでありますが、父母の離婚後父と生計を異にしている児童、父と死別した児童、父が廃疾である児童等については、社会的経済的に多くの困難があり、これらの児童を育てる家庭の所得水準は、一般的にいつて低い場合が多く、児童の扶養の資に困難をみる事例がみられるのであります。

政府といたしましては、このような事情に対しまして社会保障制度の一環として母子家庭の児童及びこれに準ずる状態にある児童について、一定の手当を支給する制度を設け、これによつて児童の福祉の増進を図りたいと存じ、この法案を提出した次第であります。」(乙第二号証)

とのべられたことからみても、重度障害者に対する年金付給とは全く異なつた必要性(ニード)に着目してなされる給付であることは疑う余地がない。

(3) 重度障害者母子世帯の生活実態と併給禁止のもたらす現実的不合理

――重度障害者母子世帯のハンディはそれぞれのハンディを単にプラスしたものをはるかに上まわるものである。――

(イ) 以上身障者、就中重度身障者世帯の生活実態があらゆる面で貧困なことおよび母子家庭の生活実態もそれに匹敵するほどの生活苦に充ちていることについて詳述したところであるが、さてそうした二つの事故が重つた場合、その生活実態は単なる倍加以上の劣悪な生活状況に陥つている。原判決が本件併給を認めることは「特定の者に対してのみ二重三重の保障をすることになり、事故が重複していない者との間にかえつて不均衡を生じ、全体的な公平を失する」とのいわゆる「やりすぎ論」となるものがいかに実態を無視したものかは明らかにする。但し、身障者・母子世帯の経済生活の苦しいことについて既に詳しく主張しているので再説を避け、前記二つの事故が重つた場合の特徴点に限り論じる。

(ロ) 重度身障者の母親が子供を育てる場合

(Ⅰ) 身障者は社会的に差別を受けている。身障者まして重度障害者が母親になることはそれ自体大きな壁を乗り超えた結果である。

事実前出京都市の調査報告(甲第五七号証表四の二)によつても、重度身障者中一八才以上の女性の有配偶者率が僅か38.4%にすぎず、京都市全体の二〇才以上の女性の60.0%と比較して、障害をもつ女性の結婚が著しく難しいことがわかるし、一般国民の三〇才台の既婚率が92.2%(田中証言)であることと比べた場合、身障者女性はそもそもの出発点から不利な立場におかれている。

(Ⅱ) 重度障害者が子供を育てるうえでの苦労について

自分の子供を自分の力で育てそこで子供とともに喜びや困難を切り開いてゆく中でお互いが成長し合つてゆくということは、すべての人間にとつて必要欠くべからざることである。このことは重度身障者にとつてもまつたく同様である。

しかしながら、重度障害者就中上告人のような視力障害者が子供を育てるには、健常者が想像もできない困難がつきまとう。

たとえば経済的に見た場合でも余分の費用が通常の親子の場合に倍して必要である。この一つの田中証人自身が体験的に証言されている事実はそのことをよく物語る。

「これは最近私が大阪で知つております例ですけども、全盲のご夫婦の方が六畳余の部屋で生活しております。近所が危いので外に子供を連れだせません。九州のお母さんに預けていらつしやいます。奥さんは労働条件(三療)が大変苛酷で賃金が安く、その中で健康を害しておられるんです。筋肉リュウマチになつておられましたが、四〇才のとき結婚して子供が一才半で動きまわるわけです。この子を自分のところで育てたいが、保育所がないし、又自分の狭い家の中に置いておくこともできない。親元でお姉さんが見ておられますけれども、五万円の収入のうち二万円をお姉さんのところへ仕送りしております。そして家賃等大変安く提供していただいているんですけれどもお礼として五〇〇〇円出し、かつ、電話代が親元なんかとの連絡も含めて二五〇〇円かかるというふうなこと、それからご自分が健康を害しておられますので車なんかを世話してもらつて病院へ通つたりする費用で大変困難な、子供を手離すしか道がないような状況で悩んでおられる実態がございます」(田中証言)

これは子供を手離して生活しなければならない重度障害者家庭の実態であるがこのことは、子供を手元において養育する場合も全く同様のことが云える。例えば子供について右と同じ理由につき近所とか知人に頼る場合が多く、そうした場合やはり金銭の出費が重なることは見易い道理である。

また甲第五三号証一五頁(同号証の右下角の数字)による「子供を育てるうえでの困難性」の調査によつても、原告と同じ視力障害者の人達は勉強を教えることができない、勉強はなにをしているのかわからない、従つてすぐ塾に通わせると訴えている。これは経費が非常にかかる(住谷証言)ということに通じるものがある。また子供が病気したときなど顔色がわからず、しかも体温計の目盛も読めず、すぐ医者につれてゆく(飯田証言)、しかも子供をつれての医者通いは交通機関として、タクシーに依存せねばならず、そのこともまた余分な費用がかかる。こうした負担を数えあげればきりがないのである。

しかし、重度障害者の母親が子供を育てる上において、倍加する負担は経済的なものに尽きない。日常生活全般にわたつての苦労が、母親のうえにのしかかつている。

前記甲第五三号証一三頁以下によると「入浴の時一緒に入れない」「外出時子供が先に飛びだすのを止めることができない」「子供と野外で遊んでやれない」「子供の運動会に出てやれない」といつたことから「病気の時夜中に病院に連れていけなかつた」「子供に投薬するときその分量方法に困難を感じた」等々と広範囲に子供を育てる上での苦痛を答えている。しかし、子供を持つ重度障害者は、人間として母親として、その智恵と愛情により工夫し、子供を健やかに育てているのが救いである。「子供の腰にスズをつけて居所をみわけた」「(全盲の両親は)子供がボタンとかいろんなものを喉に詰め込まないかというので、まず朝起きたら小さなものが部屋の中にないように掃除をする――中略――子供が外へ飛びだしてしまわないように柵を作つたり」(田中証言)「子供の熱の高さを唇で計る」(飯田証言)。なんと母親らしい、やさしい子供に対する愛情であろうか。こうした貧しい人達の生きざまは決して社会保障の低劣さを免罪しない。

以上の他にも、身障者の親にとつての精神的負担は大きい。特に学習指導・しつけ上の不安と、差別の問題がその中心をなす。前出の甲第五三号証によれば、「字をおしえられない。宿題を見てやれない」「学校の参観日に行けなかつた」かといつて「参観日に私達がいつていいものか、自分は身障者だから行くことによつて子供にどういう影響を与えるか心配である。だからいつもいかない」と身障者の母親の悩みは深い。また、「両親が不自由なために子供が他の子供からいじめられ『あんまの子』といわれ、貧しいため“毎日コロッケばかり食べている”と子供が学校の先生からまでいやがらせを受けている」ともいわれる。

(ハ) このことは児童の立場から見ても全く前記のことを裏がえした形であてはまる。

(Ⅰ) 児童が教育を受ける上でも、身障者を親に持つ子供のハンディキャップは大きい。例えば高校進学率の調査結果にもあらわれる。身障者調査委員会のまとめたものによれば(甲第五二号証表三二)重度身障者世帯の子弟の中学校卒業後の進路をみるに、全日制普通高校への進学が61.9%にすぎない。通常京都市の場合九五〜九八%が高校進学をしており(住谷証言)、大巾に低い割合といえ、その原因としては、家庭の経済的な問題、学習不足、それからどうしても働いて欲しいという親の子弟に対しての期待といつたものがその原因として強く働いている(同証言)といえる。

(Ⅱ) 更に、この子供らは或いは、子供の頃母親から絵本を読んでもらえず、山や海にもつれて行つてもらえず(甲第五三号証一七頁)、学校では「あんまの子」と差別され、或いはコロッケばかり食べているといやがらせをいわれて大きくなり、就職・結婚においても差別を受けなければならない事例も少くない。

(Ⅲ) 児童憲章は「すべての児童は心身ともに健やかに生まれ、育てられ、その生活を保護される」べきことを定めている。児童がその親が身体障害者であるか否かによつて前記のごとく不利益を受けるいわれは全くないことであり、憲法一四条の法意も同旨であることは何人も疑わないところであろう。しかるに、前記のごとき重度障害者を親にもつ児童の受けている差別的な生活実態は、それ自身社会正義に著しく反するところのものであることがはつきりしている。

(4) まとめ

以上のごとく、身障者の生活実態からはじめ重度身障者を母に持つ児童の生活実態に及び論じてきたものであるが、これを大きくまとめると、身障者就中重度身障者母子世帯の生活実態は、①著しい貧困層あるいはいわゆるボーダーライン層に位置すること ②従つてそこでは、生活保護受給者と年金受給者といつた被上告人がいうように一方が「救貧」施策を求める階層であり、他方が「防貧」施策を求める階層であるといつた明確な階層区分が可能ではなく、生活保護や障害福祉年金や児童扶養手当等々によつてやつとの思いで生存を維持しているといつた方が実情に合致しており、そのことは、当時児童扶養手当額が僅か月額二〜三〇〇〇円といつた少額のものであつてもそれを受給する層に対する影響は想像を絶するぐらい重大な意味を持つこと ③更には単に経済的面のみでなく生活全般にわたつて困難を強いられていること ④特に上告人のごとく重度身障者母子世帯は単に重度身障者世帯と母子世帯をプラスしたものというものではなく、生活困難の度合いは複合的に加重する。第一審田中証人は、次の如く証言する。

「視力障害者の方の中で男性より女性の人のほうが苦しくなつてゆくということが、一層強いということ、そして女性の方が結婚することも困難であり、結婚して子供を持つということになればたいへんな問題である。しかし子供を育てていくということを通じてお母さんが本当によかつたと、自分の子供は自分たちの生きた道をしつかりと乗り越えて、社会を作つていつてくれるようにしていこうと、子供を育てることによつて視力障害のお母さんが、障害者から人間としての生き方というのをつかみとつてゆく……このようなとき障害者に対する福祉年金というのは必要であると同時にそこで子供がしつかりと成長していき、子供と共に育つということ……の意味というのを重視して考えてゆく必要があると思うわけなのであります。(そこでは)併給をするか、しないかということのみならず障害者が子供を育てるということになりますとむしろもつとプラスされていかなければならない施策が必要なんじやないでしようか」(同証言四二頁)

すなわち、生活実態の面から検討した結果は、重度の障害を有する母が女手一つで児童を養育するについては、障害福祉年金によつてその需要が満たされているどころか、むしろ逆に、児童養育の糧をとりわけ必要とする状態におかれていることを否定することができない。

原判決が「廃疾という事故による稼得能力の低下、喪失と、母子状態を事故とする稼得能力の低下、喪失と、事故は複数であつてもその結果は同一である」と軽々に判断したことは、全く何の根拠もなく、事実に反する暴論である。

児童扶養手当が稼得能力の低下、喪失に対応する給付か、または支出負担の増加に対応する給付かということは、この際問題とならない。要するに障害(廃疾)と母子という二つの事故が現に重複する者に対して、児童扶養手当の支給を禁止するという立法をなした合理的な理由は見あたらないのである。

(三) 併給禁止条項の違憲性

(1) その違憲性

児童扶養手当法四条三項三号(改正前)の併給禁止条項は、通常の母子家庭の母親なら受給できる手当を、上告人のように、重度障害者で、障害福祉年金受給者であると、その支給をしない旨定めるのである。ところが、これまで検討してきたところによると、重度障害者母子世帯に対して、すでに障害福祉年金を支給している故をもつて、児童扶養手当を支給しないという立法の合理性を裏づける事実はなく、むしろ逆に、手当の支給がなければ、健康で文化的な最低生活の維持すら脅かされている状況がある。このような場合、児童扶養手当が稼得能力の低下喪失に対応するものだと仮定しても、さきにのべた憲法二五条の規範的意味内容からして、憲法違反の立法たるを免れない。すなわち、

(イ) 一定の所得水準以下の状態にある母子家庭の児童や、身体障害者に対して、児童扶養手当や障害福祉年金を支給するのは、まさに憲法二五条の命ずるところによる。にもかかわらず、他の理由によるわずかな公的年金を受給しているという一事でもつて、その者に年金や手当の支給を全面的に拒否することは、国民年金法や児童扶養手当法の実現しようとする目的に反し、これらの支給を必要とする母子家庭や障害者の生活実態に照らして、憲法二五条の命ずるところに反する。そして公的年金受給者に、手当の支給をすることを妨げているのが併給禁止条項であつてみれば、同条項は憲法二五条に違反するという以外にはない。

(ロ) 国あるいは立法府が、生存権の実現に努力すべき責務に違反して生存権の実現に障害となるような法令を制定し、あるいは行為をするときは、かかる法令や行為は憲法二五条に違反し、無効と解すべきところ、本件併給禁止条項はここにいう「生存権の実現に障害となるような法令」に該当し、違憲無効である。

原判決は、「本件併給禁止条項は、一旦賦与された手当受給権を後に奪つたものではなく、もともと手当の受給権を与えないというものであるから、憲法二五条に違反しない」という。しかし、問題は、手当を「一旦与えた後に奪つたかどうか」という時間的前後関係にあるのではなく、手当受給を認める立法があるにも拘らず他方で、手当受給の障害となる規定(立法)を置いた、そのことの当否にあるのである。「もともと手当の受給権を与えていない」といつても、本件併給禁止条項が違憲無効であるとするならば、別段の立法を要せず、手当の支給は開始されるのである。その意味において、本件は、何らの立法がなされていない段階において、生存権実現のための立法行為を求める給付請求の訴とは異ることを認識するべきである。原判決がいう手当受給の「障害事由」を立法によつて制定したことに対し、かかる立法が、国会の積極的な行為による生存権実現の「障害」となる立法であるといつているのである。

(ハ) 立法裁量権逸脱

原判決は本件併給禁止をなすことは、「原則として立法政策の問題であつて、立法府の裁量に任せられている」が、「只例外として立法府の判断が恣意的なものであつて、」「裁量権の範囲を逸脱したような場合であれば、憲法二五条二項に違反する」と解したうえ、財源上の理由と、稼得能力喪失に対する給付が重複することになるという理由から、本件併給禁止条項は、裁量権の逸脱、濫用とはいえないという。

しかし、仮りに憲法二五条の法意を原判決の如く解したとしても、本件併給禁止条項は、合理的な根拠なくして恣意的に立法されたものであつて、裁量権の範囲を逸脱していることは明白である。なんとなれば、児童扶養手当は後述の如く、稼得能力喪失とは別個の理由で支給されるものであり、仮りに手当支給の趣旨が原判決のとおりであつたとしても、現実に手当制度の果している役割、機能に鑑みると、これとは別個の事由と必要性に基づいて支給される障害福祉年金があるからといつて、一率に児童扶養手当の支給を禁止したことは、明らかに合理性を欠き、恣意的な立法であつて、立法裁量権の逸脱によるものといわざるを得ない。

本件併給禁止条項は、本来実質的平等の実現を目的とする社会保障立法において、障害福祉年金受給者である母と、そうでない母とを差別し、かえつて不平等な結果を作り出している。このような結果を招来する立法は、憲法二五条の理念に全く相反するものであつて、かかる立法が立法裁量権の逸脱でないとすれば、ほかに何が裁量権の逸脱といえるであろうか。

(2) 生活保護の存在は、併給禁止の違憲性をいささかも軽減しない

原判決は、上告人のような母が重度の身体障害者である生別母子世帯の生活実態が劣悪で、「健康で文化的な最低限度の生活」に及ばないとしても、本件併給禁止がなされてもなお生活保護をうける途は残されているから、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止をもつて、憲法二五条に違反するとはいえない、という。

(イ) しかしながら、このような主張が本末顛倒の論であることは国民年金法の立法当局者も認めるところであつて(乙第一五号証一七八頁)生活保護法四条一項「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる」二項「民法に定める扶養義務者の扶養および他の法律に定める扶養義務者の扶養および他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする」の定める公的扶助の補足性の原則に鑑みれば、むしろ年金によつて最低限度の生活の維持が図られるべく、それでもなお足らざるときに公的扶助が適用されるべきが筋合であり、公的扶助制度の存在を理由として年金の生活保障性を奪つたり、弱めたりすることは許されない。むしろ原判決自身の論拠とするところの国民年金や児童扶養手当は事前的、積極的な防貧施策であり、公的扶助は事後的、消極的な救貧施策であるという点からしても、後者の存在を理由に前者の給付水準の低いことを合理づけようとする考え方は問題だということになるはずである。いずれにせよ、このような見解がすべての国民に安定した老後の生活を保障していこうとする国民皆年金の理念にそぐわないことは疑う余地がないであろう。

(ロ) さらに現実の問題として、必ずしも常に、すべての国民に生活保護による最低生活保障の途が開かれているとはいえないのが現状である。

(Ⅰ) 生活保護の引きしめ、いわゆる「適正化政策」の動きと関連して、生活保護の「世帯単位の原則」が教条的に適用される結果、自己の力で最低生活を維持できない障害者であつても、生活保護を受けられないことが一般的に存在する。

新聞報道によれば(甲第三号証)小児マヒで寝た切りの四男(二四才)をかかえた六八才の老人が、将来を悲観して、マヒの子を殺害し、自らも死のうとした事件が発生した。殺された小児マヒの四男は、親の扶養を受けているという理由で生活保護を受給できず、わずか月額五〇〇〇円の障害福祉年金を支給されていたに過ぎなかつた。そのことがいかに本人および両親の生活を圧迫していたかは想像に難くない。

右は単に一例に過ぎないが、現在の生活保護制度とその運用の実際は、本来、生活保護の対象となるべき多数の国民を制度の適用から閉め出しているため、それらの者は、辛うじて公的年金や手当でその場をしのいでいる実情があるのを無視するわけにはいかない。(児島証言)

(Ⅱ) 生活保護をはじめとして各種社会保障の施策の効用を享受することは国民の権利である。しかしながら、わが国の場合権利としての社会保障という考え方は全般に欧米諸国に比して著しく薄弱で(甲四九号証「ヨーロッパ車いす一人旅」の全編にわたつてそのことが読みとれる)あり、そのことよりしても生活保護を恥しいこととして、受けとられる社会的意識のあることは、否定できない。行政当局はそうした国民の中の遅れた意識を助長しているように見受けられる。原判決が本件において福祉年金等が無拠出制であり、全額国庫負担である点を強調する中で一般納税者たる国民とそれを受給するものとを分断するいわゆる“血税論”についても右の意図が露骨にあらわれているのである。

行政当局のみならず司法当局においてさえ生活保護に対する偏見が存在する。

かつて朝日訴訟最高裁判決傍論において田中二郎裁判官は「生活保護法によつて保障される保護程度は社会生活において近隣の者に対し、見劣りや引け目を感じさせない程度の生活を営み得るまでに潤沢なものではありえない」としている。これを逆に云えば生活保護受給者の生活は近隣の者に対して、見劣りし、引け目を感じさせる程度のものにとどめておくことが生活保護法の規定だといつていることになる。こうした中で、他の面で多くの差別を受けている身障者がいかに生活が苦しくても、生活保護だけは取るまいと考えたとしても決して責められるべきものではなく、そのことが前記の身障者の収入、支出の低劣さに比して生活保護受給率が低いといつた現象に結びついている。

(Ⅲ) 昭和四七年に、東京都の依頼により、都内の代表的平均的区であるN区をとりあげ、区民全体の生活水準調査がおこなわれた。その結果(甲第七四号証)によれば、生活保護基準と同じか、それ以下の所得水準の世帯が全世帯の26.2%という巨大な量に達することが報告されている。厚生白書(昭和四八年版三五六頁)によると、昭和四七年度の全国被保護世帯数は七〇万世帯(一三八万人)であるが、わが国の総世帯数が約三〇〇〇万世帯であるから、世帯あたりの保護率は約2.3%である。

すなわち、生活水準と同じかそれ以下の生活を営んでいる世帯のうち、一割に満たない世帯しか、現実には生活保護の適用を受けていない。

(右報告は、念のため、生活水準の六割の水準をも基準にして調査しているが、この水準以下の世帯数でも、全世帯の12.1%に達する。その場合、現実の生活保護適用世帯は、二割に満たない。)

生活保護の適用を受けても然るべき国民の階層のうち、実に八割から九割までが、保護を受けることなく存在するのが事実である。

(ハ) このような現状は、右(イ)でのべたように、「世帯単位の原則」による適用の排除、(ロ)でのべたような「生活保護受給は恥」という意識を作り出している当局の制度運営、なかでも「血税論」に由来しさらに、生活保護受給にともなう「資産調査」「収入調査」その他による私生活への介入と干渉が、国民に、生活保護受給をちゆうちよさせている。

国民が、まず福祉年金はじめ公的年金に期待するのも故なしとはしないわけであり、年金が最低生活保障の中心的役割を果たすべきことが、国際的にも常識となつていることは前に述べたとおりである。

前記「補足性の原則」のもとでは「生活保護があるから、年金はがまんせよ」といつた議論は通用しない。裁判所ですら、「(証拠)から窮われる重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると、右立法的根拠にあげられる諸施策が十分にそれぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえない」と言わざるを得なかつた程である(もつともそれは制度運営の問題だとして、本質的なところをごまかしている。)。

以上のべたように、「本件併給禁止がなされても、なお生活保護を受ける途が残されている」ということを、併給禁止の合憲判断の理由に挙げることは、社会保障法制度の体系からいつても、制度の現実からいつても誤まりであり、原判決がこの点において憲法二五条の解釈適用を誤つていることは明白である。

(3) 「財源の限界」を併給禁止の理由とすることの誤り

(イ) 本件併給禁止を撤廃することによつて必要とされる財源は極めてわずかである。原判決は、本件併給禁止を理由づける大きな拠りどころとして「財源の限界」を再三繰りかえすのであるが、それは抽象的、一般的に記述されるのみであつて、何ら具体性がない。本件併給禁止を撤廃することが、果して、「財源の限界」によつて阻まれていたのであろうか。答は「否」である。

すでに昭和四八年九月に本件併給禁止条項が改正され、老令福祉年金および障害福祉年金と、児童扶養手当との併給が認められるに至つたが、その予算案によれば、右併給に要する費用は初年度においてわずか一四二四万三〇〇〇円にすぎず、昭和四八年度一般会計の総予算額一四兆二八四〇億七三〇〇万円のわずか0.0000997%にすぎない。

(ロ) 併給禁止の理由を財源の限界に求めることはできない。

(Ⅰ) 財源があるかないかという問題は、「何のために使う財源があるのかないのか」という問題であり、それは絶対的なものではなく、相対的なものであり、「出す意思があれば出てくるもの」なのである。

そして財源を何に使用するかは決して国や国会が自由に定めうるものではなく、最高法規である憲法の趣旨に則して定められなければならないことは当然である。

憲法二五条において、国がすべての国民に対して健康で文化的な最低限度の生活を保障する規定が存する以上、これが国民に具体的請求権を保障したものかどうかの議論はともかく、国は国民の生存権の確保のために最大の努力をすることが義務づけられているのであつて、国は軽々に財源に限界があるとの理由をもつて右の義務を怠ることは許されない。

(Ⅱ) ところが、わが国はGNP世界三位の経済大国としてその経済力を誇りながらも社会保障の現状は極めて貧弱であつて、国際的にも、児島証言などから明らかなように、一人当りの社会保障給付費からみても、国民所得或いは国民総生産に対する社会保障給付費の割合からみても、その他あらゆる観点からみても、欧米先進国とは比較にならない程低劣である。

他方、過日札幌地方裁判所民事部の長沼事件第一審判決において明確に憲法違反と断定されたほど、その合憲性に深刻な疑義の存する自衛隊に対して、政府はぼう大な国費を投入してきた。具体的にみると昭和三三年度からの第一次防の総予算が四、五三〇億円、同三七年度からの第二次防が一兆一、五〇〇億円、同四二年度からの第三次防が二兆三、四〇〇億円、同四七年度からの第四次防が五兆二、〇〇〇億円であり、これを各年平均すると第一次防は一、五一〇億円、第二次防は二、三〇〇億円、第三次防は四、六八〇億円、第四次防は一兆〇四〇〇億円にも達しているのである(昭和四八・九・七札幌地裁長沼判決参照)。

憲法上、国が国民に対して最大の保障をすることの要請される社会保障に対する国家予算の支出が極めてわずかであるのに対して、裁判所においてその存在自体が憲法違反と判定された自衛隊に関する防衛費にかくも尨大な国家予算を支出しているという極めて奇妙な現実をみる時、国家財政上の理由をもつて社会保障費の支出ができないことを合理化することは到底許されないといわざるをえない。

(Ⅲ) 従来の社会保障関係の訴訟事件においても、国側は、しばしば財政上の限界を実質的な理由として社会保障給付を制限する法令の合憲性を主張してきたが裁判所は以下のように国側の主張をとり上げていない。

すなわち、経過的老齢福祉年金について夫婦受給制限規定の違憲性が問われたいわゆる牧野訴訟判決は、「……国家予算の都合から老齢福祉年金の受給対象者が夫婦者であるか単身者であるかによつてその支給額を差別することまでも許されるというべきではない……」「……夫婦者の老齢者を単身の老齢者と差別し、夫婦者の受給者に支給される老齢福祉年金のうち、さらに金三〇〇〇円(月額二五〇円)の支給を停止するがごときは、国家財政の都合から、あえて老齢者の生活実態に目を蔽うものであるとのそしりを免れない……」と判示し、夫婦受給制限規定を違憲とした(東京地裁昭四三・七・一五判決)。

さらに財源と社会保障費との関係について明確に判示したのがいわゆる朝日訴訟第一審判決である。判決は最低生活水準を判定するについて注意すべきこととして「その時々の国の予算の配分によつて左右されるべきものではない……最低限度の決して予算の有無によつて決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである。」と判示している(東京地裁昭三五・一〇・一九判決)。この見解こそが憲法二五条の理念に沿つた正しい見解というべきであろう。そしてその控訴審である東京高裁の判決(昭三八・一一・四判決)も、右一審判決より後退して、「------保護の基準も、国民所得ないしその反映である国の財政を離れてこれを無関係に定めうるものではなく------」と判示して生活水準の確定の要素として国家財政を考慮することを肯定しつつも、「生活保護行政が------予算の配分に従つたというだけの理由で、該基準の設定が適法であるということにはならない」と判示して、基本的には叙上の理を支持している。

以上のような判例の趨勢からみても、一方で重度障害者母子家庭の悲惨な生活実態が存し、他方で併給のため財源が十分に存する本件の場合において、財源の限界を理由として本件併給禁止に「合理性」を導こうとすることは、到底許されないものといわなければならない。

第四、原判決の憲法第一四条の解釈・適用の誤り

一、原判決の判示

原判決は、本件併給禁止条項が憲法第一四条第一項に違反しないとして、次のとおり判示する。

(一) 憲法第一四条第一項は国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきである。

(二) 本件併給禁止条項による差別的取扱いが合理的なものであるか否かを判断するにあたつては、(1)財源には限度があるため、限られた財源をいかに効率よく公平に活用するかという見地、と(2)国民各層のニードに対応した給付をしなければならないという見地、(3)これらを全体的な立場からいかに調和せしめるかという見地、に立つことが必要である。

(三) そして本件にかんして合理性の有無を検討するにあたつては、

① 障害福祉年金も児童扶養手当も母の稼得能力低下喪失に対する給付という点では共通であり、同一人に稼得能力の低下、喪失を来たす事故が複数重なつても結果は、同じである。併給を認めると二重・三重の保障となり、かえつて不公平となること。

② 両制度とも、無拠出で行なわれる給付なので、一般国民感情が併給を当然視するまでに至つていないこと。

③ 身体障害者・母子には、他の社会福祉施策もあるのでそれらを総合すれば不合理でないこと。

④ 最終的には生活保護制度により生活が保障されること。

⑤ 家族給付以外は併給禁止しても国際常識にもとるものではないことを掲げ、本件併給禁止には合理的根拠があると述べた。

二、憲法一四条解釈の誤り

原判決は「財源の限界」を憲法一四条一項適否の重要な基準としたが、このような解釈は誤りである。「財源の限界」の有無は、併給禁止の合理性の有無とは本来次元を異にする性質の事柄である。なぜなら、財源の有無により、支給の必要性の有無や根拠が左右されるものではないからである。したがつて、「財源の有無」を合理性判断の尺度として使用することは許されない(すなわち、併給すべきであるが、財源がないため併給できない、というのは、決して併給禁止の合理性そのものを認めることではない)。

三、憲法一四条適用の誤り

原判決は、本件併給禁止条項による差別的取扱いには合理的理由があるとして、「財源の限界」および前記①ないし⑤の理由を掲げている。

まず、判決の「合理性」判断の基本的態度に問題がある。

(一) 合理性判断の基準

憲法一四条一項の法意に照らし、差別取扱いに合理性があるか、どうかの判断は、「問題となりうる限界線上の個々のケースについて、果して実質的に人間を尊重する憲法の精神に照らして「合理的」と認めうるかどうかをテストしてゆく必要があり」(小林直樹、憲法講義上三〇六頁)・「それぞれの要請の名において、合理的な差別であるという考え方が濫用されることがあつてはならない」(佐藤功、コンメンタール憲法一一七頁)。そしてその場合に、「差別の理由は厳密に必要最少限度に止め」(佐藤、前掲一一七頁)ることが必要であり、あるいは「『合理的な差別』をつねに狭く解する原則的態度が必要」(小林、前掲三〇七頁)である。

原判決は、児童扶養手当の性格を誤解し、また差別取扱の対象である身体障害者母子世帯の実態を無視し、差別を形式的にしか扱わないという、二つの重大な誤り等を犯し差別の合理性判断を誤り、憲法一四条の適用を誤つた。

(二) 各理由の検討

次に、原判決の掲げた理由について遂次検討する。

(1) 原判決は児童扶養手当制度の趣旨を誤解している

児童扶養手当法を正しく解釈すれば、児童扶養手当は、児童の心身の健やかな成長を直接の目的として給付されるものである事が明白である。(その理由については後記第五をあわせて参照されたい)

ところが、原判決は、児童扶養手当を死別母子世帯に給付される母子福祉年金を補完するものと誤解し、障害福祉年金と同じ、稼得能力低下・喪失に対する所得保障であるから、重度身体障害というハンディと生別母子状態というハンディの二つが重つても、稼得能力低下・喪失は同じであるとした。そのために上告人が障害福祉年金を受給していることを、差別の合理的理由の一つであるとして、憲法一四条一項の適用を誤つた。

(2) 「稼得能力低下喪失」論の誤り

原判決は、児童扶養手当支給の原因たる事故と障害福祉年金支給原因たる事故は、事故は複数であつても、それによる稼得能力の低下・喪失という結果は同一であり、それぞれに年金を支給すると、二重・三重の保障となるから本件差別的取扱いには合理性があると断じている。

しかし、児童扶養手当の趣旨を如何に解するにせよ、本件上告人のような場合に「事故は複数であつても、結果は同一」という余地はない。原判決は「稼得能力喪失」という抽象的概念を持ち出すことによつて、「結果は同一」という結論を導き出す手品をやつてのけたのであるが、その仕掛けは白日の下では簡単に見やぶることが出来る。すなわち、原判決が「稼得能力喪失の点では同一」という重度障害者、母子家庭、さらに重度障害者母子家庭(上告人の家庭)の生活実態を、それぞれ検討した(第三の二(二))ところを再び参照していただきたい。現実の厳しさは、「稼得能力喪失」という共通項を使用したからといつて、加重こそすれ、決して軽減しないのである。

本件併給禁止条項の憲法一四条適否を判断するにあたつては「稼得能力云々」を抽象的に論ずるのではなく上告人を含め重度障害者母子世帯の生活実態に照らし、かかる差別を合理的なものとして容認しうるかどうかを実証的に検討することが不可欠である。そして前記第三、二(二)に掲げたような生活実態および本件併給禁止のもつ現実的意味に照らし、併給禁止はとうてい合理性を有し得ないものである。

(3) 無拠出制を理由に本件併給禁止を合理的とする誤り

(イ) 国がすべての国民の生存権を確保する義務があることは憲法二五条の規定から明らかなところであり、本件手当もかかる憲法二五条の趣旨から生活に困窮した母子家庭が現実に多数存在する現実を直視して、かかる母子家庭の生活を保障するために支給することにしたものであり、その性格は既に述べたように社会保険の範ちゆうに属するものではなく、いわゆる第三の型といわれる社会手当(社会扶助)としての性格を有するものである。

児童扶養手当が右のような性格を有するものと考えるならば、受給権者がその基金を拠出しているのか否かによつて取扱いを異にする根拠は見い出せない。けだし、生活に窮乏した母子家庭の生活を確保することは憲法二五条から導かれるところのいわば至上命令ともいうべきものであつて、このためには受給権者が基金を拠出しているのか否かは何ら問題とすべきことではないからである。

にも拘らず拠出の有無を問題にして取扱いを異にするのは、憲法二五条による国の社会保障施策、本件手当の支給をもつて、国民の生存権の確保に基づくものとはみずに、単に国が恩恵として国民に施すという前近代的な社会保障観に基づくものといわなければならない。

このような社会保障観が現行憲法下で存在しえないことは余りにも明白なことであり無拠出制を理由にして本件併給禁止の理由とすることは憲法二五条の理念および児童扶養手当の性格にも反するものであつて、到底合理性を有しない。

(ロ) そして、原判決の右のような考え方は、社会保障制度の発展方向並びに社会保障についての国際的常識からみても合理性を有しない。

かつて、社会保障の方式としては拠出制の社会保険の方式と厳格な資産調査を伴う無拠出制の公的扶助の方式の二つの方式が代表的であるとされてきた。そして社会保険の場合には何らかの形での拠出が受給要件の一つと考えられていた。しかしこのような社会保険のタイプは「古典ないし旧型」の保険といわれ、「社会保障体系の下における社会保険の新しい考え方は、社会保険給付の受給資格は、被保険者の保険料払い込みと関係ないと考えようとするところに成り立つ」(角田豊「無拠出制所得保障について」社会保障法の課題と展望三九頁〜四〇頁)といわれるようになつた。

他方生活保護に代表される公的扶助の場合には、厳格な資産調査が行われるために、受給者の名誉、プライバシーの侵害等が常に伴う弊害が存した。

そこで今日では、無拠出制で、しかも公的扶助のような厳格な資産調査を必要とせずに単に一定の所得調査のみで支給する方式、すなわちいわゆる社会扶助の形式が今後の社会保障制度の進むべき道であると指摘されているのである。

こうした社会保障制度の発展方向からするならば、児童扶養手当や、障害福祉年金の制度は特に最先端をいく制度と考えられる。

国は他の社会保険についても被保険者の拠出額を減額又はこれを必要としない方向に進むために努力することが要請されることがあつても、障害福祉年金や児童扶養手当が無拠出制であることを理由に併給禁止をすること等は右に述べた社会保障制度の発展方向に背馳するものであつて合理性を有しない。

右に述べたことは社会保障についての国際常識ともいうべきものである。一九六六年のILOの第五〇回総会での報告書には、拠出制か無拠出制かによつて区別するのは妥当でない旨記されており、今や拠出の有無によつて給付の質、量に影響を及ぼす方法は妥当しないのである。

(ハ) 更に本件併給禁止の対象となる者は、いずれも拠出制年金の被保険者から除外された者であり、年金や手当をうけるために拠出をしようとしてもこれをなしえなかつた者であることを考えれば、無拠出を理由に併給禁止をすることの不合理性はより明らかである。

このように拠出しようとしても自らの意思とは関係なく制度上の問題から拠出することのできなかつた者に対してまで、無拠出であることを理由にして公的年金との併給を認めないとすることは到底合理性を有するものではない。

また、「財源の限界」を本件併給禁止の根拠となし得ないことについて、第三、二、(三)、(3)を参照されたい。

(4) 「国民感情」を併給禁止の理由とする誤り

原判決のもちだす「一般国民感情」が如何なるものであり、何によつて表示されるのかは不明である。併給禁止を違憲とした本件第一審判決には、圧倒的国民世論の支持が寄せられた。それは、必ずしも形となつて残るものではないが、一般に顕著な事実である。

例えば

第一審判決以後には、社会保障学者一三四名からなる第一審判決支持、控訴取下げのアピール(甲第二七号証)が採択された。

国民世論の動向を一方でリードする学説においても第一審判決に対する法律学者による評論ならびに解説で、本件併給禁止条項を違憲であると判断した第一審判決を支持しないものはなく、すでに多数の文献がでており、本件訴訟に関与した学者以外の手による代表的なものをあげると、①森順次、ジュリスト五三五号(昭和四七年重要判例解説九頁)甲七九号証、②今村成和、判例時報六八五号一六九頁甲七八号証、③佐藤進、ジュリスト五二二号九二頁甲七七号証などがある。

我国では議論を通じて国民の声を政治に反映させようという制度が採られているが、昭和四七年一〇月九日兵庫県議会は全会一致で第一審判決を支持し「この判決を広い視野にわたつて受けとめ、福祉政策全体について再検討するとともに、各種年金・手当の併給制限について法律改正を含む改善を行われるよう強く要望する」決議をなし、昭和五〇年三月一五日京郡府議会においても、右判決を支持し、政府はすみやかに本件控訴を取下げるべきであるとする決議を採択し、地方自治法九九条二項による意見書として、内閣総理大臣、法務大臣および厚生大臣に提出したものである。

さらに国権の最高機関である国会においても、昭和四八年には本件併給禁止を撤廃する法案が審議され(甲第三二号証)同年九月には法政正が成立している。

厚生省の下で児童扶養手当支給に関する事務を担当してきた者にも、本件併給禁止の不合理性が意識され、近畿六府県児童扶養手当主管部長らは、厚生省に対して、併給禁止の不合理性と併給の必要性について要望書(昭和四五年五月一六日付)(甲第五号証)を提出している。

最後に国民世論を最も鋭敏に反映するマスコミは、原判決当日の昭和五〇年一一月一〇日の夕刊の解説で、「弱者に厳しい判決」(朝日新聞)「基本的人権空文に」(毎日新聞)「福祉見直し消極的な判断」(読売新聞)「福祉裁判に水」(神戸新聞)と、いずれも併給禁止を合憲とした原判決を厳しく批判している。

以上のように本件併給禁止を違法、不当とする国民世論は顕著な事実であり、それを反映する事実が第一、二審の審理に多く提出されているのにかかわらず、何らの証拠を示すこともせずに「一般国民感情が併給を当然視しない」とした原判決はあまりに偏見に満ち、独断としかいいようがない。さらに言えば、一般国民感情という極めて漠然としたものを併給禁止の根拠として持ち出さざるを得ない原判決の不当性が浮き彫りにされたといえよう。

(5) 他の社会福祉制度の存在を併給禁止の合理性の根拠にすることの誤り

① 原判決は、本件年金・手当以外の社会福祉施策の標目を掲げている。しかし、右各制度が存在するといつて、本件併給禁止による差別取扱の性格に何らの変化が生じるわけでない。また、重度身体障害者は社会福祉施策により、そのニードが満たされているという事実もない。それにもかかわらず、いくらかの社会福祉の施策があるから、国民が年金、手当問題に何ら憲法を根拠に権利主張が許されないとすれば、年金、手当のみならず、他の施策自体に差別取扱があつても、同じようにそれ以外の施策の存在を理由に合理性は認定され、国民の社会保障に関する権利主張は一切封じられることになつてしまう。

② 原判決もさすが社会福祉施策の標目のみを掲げただけでは、論旨に説得力がないと考えたのか、重度身体障害者、母子世帯の生活実態からすると、右立法根拠にあげられている諸施策が十分それぞれの役割に応じた機能を発揮しているかどうか疑問がないとはいえないけれども……と事実に裏付けられた立法的根拠ではないことを自認しながら、つづけて、これらはこうした施策の運用において適切なものが欠けている故であるから合理性は欠かないと言う。

原判決によつても、本件併給禁止により差別的取扱をうけている、重度身体障害者母子の母が極めて困難な状況におかれ、原判決の掲げる施策の標目も大して実のない標目にすぎないことが認められるのであるから、差別の合理性の根拠とはなし得ない。

③ 原判決の掲げる諸施策の実態からも原判決の論旨の誤りは明白である。

身体障害者の雇用安定制度に関する身体障害者雇用促進法の基準自体が運用におとらず著しく低劣であることはすでに明らかにしたとおりである。

また昭和四五年の兵庫県における身体障害者手帳交付者五五、六二三人、神戸市における同交付者一四、六三五人に対する身体障害者相談員は前者が一三〇人、後者が三〇人(甲第一一号証)であり、これらの者が毎日出勤し毎日一人の障害者を訪問しても一年間にすべての障害者を一度訪問することはできないのである。

在宅の重度身体障害者の介護をする市町村派遣の身体障害者家庭奉仕員は、昭和四五年一〇月現在三四九、〇〇〇人の在宅重度身体障害者に対し、昭和四八年の予算定員によつても、僅か九六七人にすぎない(甲第三七号証の三)。また厚生省の昭和四八年の国民福祉の動向によれば、身体障害者更生援護施設(収容)状況は、施設数が二一五、収容定員が一二、六二七人であるが、同年の厚生省社会局「社会保障関係問答集」によれば、要入所者は約八万とみこまれるとされている(甲第三七号証の三)。

以上のように原判決が掲げている社会福祉施策は、運用において適切なものが欠けているばかりか、施策自体の致命的欠陥、不備が著しく右施策の標目が、本件差別取扱の合理的理由にはなりえない。

④ 原判決は、国民のニードにかけはなれた低劣な年金・手当、欠陥、不備だらけの福祉施策など、それぞれは非常に問題が多くても総合すれば、国民のニードに対応すると判断しているのかも知れない。

ところが前記の(3)①のとおり、年金、手当が生活保障の原則をみたす、西欧先進国の福祉施策は、石坂直行著「ヨーロッパ車いすひとり旅」(甲第四九号証)で著わされているように日本とは格段の差のある充実したものであることが明らかで、これらを総合して考察すれば、日本の状況が身体障害者母子のニードからおよそかけはなれたものであることがわかる。

本件では、重度身体障害者母子家庭の母と健全な母子家庭の母の差異が対比されているのに、母子家庭に対する一般的社会福祉施策や、一般国民が傷病事故にあたつて給付をうける健康保険や国民健保の医療制度などの社会福祉施策を本件併給禁止による差別取扱の合理的理由とするに至つては国民のニードを真剣に検討するのでなく、字面だけを合わせることに汲々する原判決の態度をまのあたりに見せつけられるのである。

(6) 生活保護制度があることを併給禁止の合理的理由とする誤り(これについては、第三、二、(三)、(2)と同一であるから、これを引用する。)

四、結論

(一) 原判決は、以上のとおり、本件差別取扱いの実態を無視し、合理性の判断を誤り、本件差別取扱いが著しく不合理なものであることが明白なのに、差別取扱いに合理性あるものとして、憲法一四条一項の適用を誤つたものであり、破棄を免れない。

(二) 原判決は、「立法府の立法裁量に属するものである場合、これを違憲であると判断するがためには、立法府が恣意によるなどして判断を著しく誤り、その裁量権を逸脱し、憲法に違反することが明白な場合でなければならない。」とする。このような憲法解釈は憲法一四条を実質上空文化してしまうものであつて誤りであるといわざるを得ないけれども仮に百歩譲つて考えるとしても、前記障害者、母子家庭の生活実態と、併給禁止のもつ現実的な意味に徴し、本件は「立法裁量権の逸脱」であり、本件差別は著しく不合理なものであり、憲法一四条に違反することは明白である。

第五、児童扶養手当法の解釈を誤まつた法令違背

原判決には、児童扶養手当の性格を論ずるに当つて、経験則に違反した非論理的な判断をなすことによつて、右手当の性格を誤まるという、判決に重大な影響を及ぼす法令違背がある。

一、原判決の性格づけとその理由

原判決は手当を、「防貧施策としての年金制度(母子福祉年金制度)を補完する性質のものであり、夫(父)と生別という原因による稼得能力の低下、喪失に対する所得保障としての手当を支給する制度である。」・(原判決三七丁裏)と断じる。その理由とするところは、「立法の経緯及び同法第一条に『父と生計を同じくしていない児童について』とあり、また同法第四条第一項に手当は『母又はその養育者に対し』支給する旨の規定の存する」ことに尽きている。しかしこの根拠づけは、全く理由にならない理由づけである。以下反論を述べる。

二、「立法の経緯」についての誤解

先ず、右に云う「立法の経緯」は単なる当初の立法の動機にすぎぬものであり、野党側からの“国民年金法の一部改正によつて生別母子世帯にも母子福祉年金を”という要求をふりきつて単独立法化される中で、社会保障の考え方としては、国民年金とは切断され、立法段階においても児童手当の萌芽と考えられるに至つたことは、

甲第六号証(甲第三六国会衆議院社会労働委員会議事録第八号)にみられる「拠出制国民年金と関係のない福祉年金を設けることはできない」との政府委員の答弁、甲第七号証(社会保障審議会の「社会保障制度の総合調整に関する基本方策についての答申および社会保障制度の推進に関する勧告」)二五九頁の「生別母子家庭等に対する児童扶養手当制度がはじめられたけれども、これだけでは多子による貧困は防止しがたく、西欧諸国に対して大きなたちおくれがある。いまや、本格的な児童手当制度を発足させるべき時期であろう」との記載、当時の厚生省児童家庭局長が著わしたところの甲第一八号証の「児童扶養手当は、父や母に事故がある場合の児童をもつ世帯に対する援助措置であるから、これらの事故があろうとなかろうと普遍的に児童の生計費を大巾に保障しようとする本格的な児童手当でないことはもちろんである。しかし、扶養手当制度は中小零細企業等における収入によつて生計を営んでいる母子世帯等に対するものであるから、極く限られた分野ではあるが、児童手当制度の属性を具えているものと考えられ、この意味ではわが国の児童手当制度の萌芽ともいえよう」との記載、後記の実務の取扱い、並びに第一、二審における角田証言から明らかである。

三、母子状態=稼得能力低下喪失論の誤り

第二に、原判決は、母子福祉年金―死別母子世帯、手当―生別母子世帯という図式を短絡的に結びつけ、手当も亦稼得能力の低下、喪失に対応する給付であるとする点で大きく誤つている。一般に稼得能力の低下・喪失を招来する原因と考えられているのは、老令・廃疾・生計中心者の死亡であることは原判決も認めるところ(三七丁表〜裏)である。だからこそ、母子年金にも母子福祉年金にも「夫によつて生計を維持していた」という要件が付されているのである。即ち、「生計を維持していた」者が死亡したことが、いわば、遺族の享有していた扶養の喪失=遺族の稼得能力の喪失ととらえられるから、年金の対象となつているのである。ところが、手当にはこのような生計維持要件は要求されていないのである。

原判決は「死別母子については、国民年金法による母子年金あるいは母子福祉年金又は年金関係各法による同様の給付を受けられるようになつたのであるが、夫と生別した場合には、右のような給付は受けられない。……死別と生別とを問わず、よつて生じた母子世帯の社会的、経済的実態は同じであるため、これと死別母子世帯とくらべその公平を図り、生別母子世帯について母子福祉年金に準ずる所得保障を実施することにしたのが、児童扶養手当法の制定である。」(二七丁裏)とするが、これは極めて不正確な表現であり母子年金、母子福祉年金の受給権者は、死別母子一般ではなく、夫によつて生計を維持していた場合の死別母子世帯の母親である。母子年金、母子福祉年金をこれらの対象たる死別母子世帯と同種の生別母子世帯にも拡げようとするなら、当然生計維持者たる夫と生別した場合の母子世帯のみが対象となるはずである。つまり死別、生別を問わず生計維持者たる夫が不在となつたかそうでないかは、その母子世帯につき稼得能力の低下喪失を論ずる余地があるか否かの決定的な差異があるのである。それにもかかわらず「母子世帯の社会的、経済的実態は同じである」とするなら、その社会的、経済的実態の共通性はもはや稼得能力の喪失、低下に求められるものではなく、一般的に社会的弱者と考えられている女性しか稼ぎ手のいない家庭においては、児童の養育が極めて困難であるということにしか求めることはできない。原判決はこの点を全くあいまいにし、母子年金、母子福祉年金の生計維持要件を「保険的方法により所得保障をしようということから、規定上受給権者を制限特定する上で必要であるため、入れられているものにすぎない」(三〇丁表)というが、生計維持要件をはずしたところで、受給権者は特定しうるのであり、とりわけ生計維持要件を必要としたのは、正にそれがあつた場合にのみ稼得能力の低下、喪失を論じることができたことを全く看過しているのである。

四、法の明文の極端な軽視

第三に、原判決は、児童扶養手当の性格を論ずるにあたつて最も重要な根拠となるべき法の明文を極端に軽視している。即ち原判決は児童扶養手当法第一条、第二条、第一四条三号を引用したうえ「児童扶養手当は児童の健全な養育に資するという目的で支給されるものであることは明らかである」ことを認めながら、「稼得能力の低下、喪失に対し、母(又は養育者)を受給権者とする所得保障の性格をもつと解することと矛盾するものではない」としたうえ、「母子年金、母子福祉年金も最終的には全く同じ効用をもつものであると考えられる」(二九丁)と強弁する。しかし、右法の明文は、児童扶養手当が、「児童の福祉の増進を図ることを目的」(同法一条)とし、「児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給されるものである」(同法二条前段)ことを明言しているのであり、被上告人もこのような児童扶養手当の趣旨を認めているものである(被告答弁書、請求の原因に対する答弁第三項)。そして更に同法同条後段は、「その支給を受けた者は、これをその趣旨に従つて用いなければならない」と、社会規範として、目的外使用を禁止し、(甲第六六号証一五頁)、同法一四条三号はこれを受けて「受給資格者が、当該児童の監護又は養育を著しく怠つているとき」は「その額の全部又は一部を支給しないことができる」と定めている。

これらの規定は、手当支給の趣旨・目的が、「児童の心身の健やかな成長」にあり、その他のどこにも存在しないことを物語つて余りあるものである。右の一四条三号にあたる規定は、国民年金法には全く存在しない。

この点に関し、母子福祉年金・児童手当・児童扶養手当の趣旨・目的等に関する各法律の明文を表にして掲げれば左のとおりである。

左表を一見して明瞭なとおり、児童扶養手当は、母子福祉年金はおろか、児童手当よりも一層、児童の養育のための手当であることが、法の明文によつて性格づけられているのである。原判決の論旨は、このような法の明文を極端に軽視したものであつて、通常の常識をもつてしては到底肯しえないものである。

手当の名称

目的

趣旨及び使途の制限

目的外使用の制裁

母子福祉年金

国民生活の安定がそこなわれることを国民の共同連帯によつて防止し、もつて健全な国民生活の維持及び向上に寄与すること(国民年金法一条)

なし

なし

児童手当

家庭における生活の安定に寄与するとともに次代の社会をになう児童の健全な育成及び資質の向上に資すること(児童手当法一条)

前条(一条)の目的を達成するために支給されるものである趣旨にかんがみ、これをその趣旨に従つて、用いなければならない(同法二条)

なし

児童扶養手当

児童の福祉の増加を図ること(児童扶養手当法一条)

児童の心身の健やかな成長に寄与することを趣旨として支給されるものであつて、その支給を受けた者は、これをその趣旨に従つて用いなければならない(同法二条)

「受給資格者が当該児童の監護又は養育を著しく怠つているとき」は、「その額の全部又は一部を支給しないことができる」(同法一四条三号)

五、上告人の根拠づけについての判断の欠落

第四に、原判決は、上告人が、右以外に挙げた児童扶養手当が稼得能力の喪失、低下とは関係がないとする根拠についてほとんど判断していない。即ち、上告人は、養育者に手当が支給される場合や、父が廃疾の場合には稼得能力の低下を論ずる余地のないことを指摘してきた。養育者に支給される場合には、養育者であることには何の制約もないのであるから、夫婦そろつている家庭であろうとその家庭に養育者の子供がいようといるまいと関係はない。手当対象児童を養育することによつて養育者にもたらされるのは、稼得能力の喪失、低下ではなく、その児童の養育に要する支出の増加である。原判決はこの点について全く触れようともしない。

又、父が廃疾の状態にある場合には、父の廃疾状態に対応する公的年金給付は、児童加算の部分を除いては児童扶養手当と併給される(児童扶養手当法四条二項五号)が、この場合稼得能力の低下、喪失たる父の廃疾に対応する給付は別に支給されているのであるから、手当について稼得能力の低下・喪失を論ずる余地は全く存在しないのである。この点についても原判決は全く論じていない。

最後に、原判決は、上告人が指摘した第二子からの加算制度につき、「児童扶養手当は、生別母子ということから一般的に予測される稼得能力の低下・喪失によるその所得の一部を保障するものであつて、一挙にそれによる所得の低下・喪失の全額を保障するものではないから、技術的に、児童数によつて支給額を按分していく方法をとつているものと考えられないことはない。……生活実態にある程度見合つた給付をすることが適当であるという考えに基づくものであることが認められるので、右加算制度のあることをとらえて……稼得能力の低下・喪失とは関係ないなどと断定するわけにはいかない。」(三〇丁裏〜三一丁表)というが、児童数が増加した場合に別に稼得能力が低下するわけではない。「生活実態」が異つてくるのは児童扶養のための支出が増加するためであつて、それにある程度見合つた給付が適当とする考え方は、手当を稼得能力の低下・喪失からではなく、児童扶養のためととらえることからはじめてでてくるものであつて、原判決のこの点についての判断は全く矛盾したものである。

六、児童扶養手当は家族手当=児童手当の一種である

第五に、原判決は、手当が家族手当―児童手当であることを否定し、その根拠としてILO第一〇二号条約に関する条約、勧告適用専門委員会の報告書を引用する。しかし、右報告書の記載は両親が離婚、別居あるいは死亡した場合等の子に対して一定の給付を支給する法律が、家族給付の性格を有することを前提に、それのみではこの条約が要求する最低基準を満たしていないという趣旨の記載であつて、何ら手当の家族手当―児童手当性を奪うものではない。そして、原審における角田証言において明らかにされたように、家族手当―児童手当が母子家族における児童養育からハンディキャップを負つた家族における児童養育へと発展していく過程の中で、現に、ニュージーランド、ドイツ連邦共和国、ベルギー、アイルランド、ノルウェー等で、両親もしくは片親のない児童に対する手当が、様々の形で、一般の家族手当―児童手当とは別に支給されているのである(甲第六五・六九号証)。右のような手当も亦家族手当―児童手当であることに争いはないことは、甲第六九号証の表題(「家族手当についての一般基準」)からも明白である。

この点に関し、原判決は「成立に争いのない乙第五五号証の四・五によれば、〈児童手当あるいは家族手当〉は、世界各国の例をみても、子女の扶養を要件として一般家庭における平均的生活状態に着目して給付を行うのが普通で「扶養」以外の両親の一方が欠けているとか、児童が心身障害児であるとかいう特別の事由について支給要件、給付額を変えることをしているものではないことが認められる。いずれにしても児童扶養手当をもつて、児童手当の一であるとはいい難い。」とのみ論じているが、乙第五五号証は、アメリカ合衆国という一国(それもILO脱退を噂されている国である)のなしたアンケート調査であつて、これをもつて甲第六五、六九号証など国際的に最も権威のある国際社会保障協会の報告・論文に優位させるという原判決の判断の仕方は我田引水以外の何ものでもない。

例えば、荒木誠之教授の著した「現代の社会保障」(同文館)においては、家族手当―児童手当を児童扶養ととらえ、わが国における「最初の児童扶養給付立法は昭和三六年に成立した児童扶養手当法であつた。(同書三二〇頁)と述べているが、わが国においてもこのような考えが通例であつて、原判決の立場は独自の見解としかいいようがない。手当を、遺族給付に近似したものという原判決は、各国における家族手当―児童手当の発展の歴史を覆そうというのであろうか。

なお、原判決は、「児童扶養手当と児童手当」と題する項で、右二手当の関係について論じているが、その論旨は、先に児童扶養手当の性格を稼得能力の低下・喪失に着目した所得保障制度と決めつけたうえで、児童手当との差異を強調するものにすぎない。しかしながら、児童扶養手当が、児童の養育のための手当――従つて支出の増加に対する手当であることは、前記法の明文の比較からも明らかであり、現に実務の左のような取扱いも、児童扶養手当と児童手当の本質的同質性に根ざすものである。即ち、甲第六一号証、によれば、児童扶養手当の所管は、児童手当と同じく厚生省児童家庭局であり、母子福祉年金のそれが厚生省年金局であるのと全く異つている。

又、甲第六七号証(兵庫県の発行した、児童扶養手当・特別児童扶養手当のしおり)は、「手当の対象となるのはどのような児童ですか」という項目を設け、児童扶養手当の支給の対象が児童であることを認めている。

そして、甲第六〇号証(特別児童扶養手当等の支給に関する法律等の一部を改正する法律案)によれば、児童扶養手当の支給額は、特別児童扶養手当、児童手当と共に一括して、一つの法律で改訂され、しかもその提案理由として「児童扶養手当及び児童手当の支給対象児童の福祉の向上を図るため」となつていることから、児童手当・児童扶養手当・特別児童扶養手当という同一の所管に属する三制度が歩調を同じくしていること、児童扶養手当が児童手当と同じく、児童福祉のために支給されていることを厚生省をはじめ、政府当局も認めているのである。

甲第五号証にみられるように、近畿六府県(特別)児童扶養手当事務研究会において、六府県の児童扶養手当主管部長らが検討した結果、昭和四五年五月一六日付で、「児童扶養手当を請求しようとする者が、国民年金法(昭和三四年法律第一四一号)による障害福祉年金をうけることができるときは、法律第四条第三項第三号の規定により、手当は支給されないことになつているが、前者は障害者、後者は児童というようにその目的を異にしている。このため同一受給者に対する重複支給が認められるように図られるとともに、将来、すべての公的年金(児童を対象にするものは除く)との重複支給についても改善を考慮されたい」と厚生省児童家庭局長に要望したのも、かかる実務の取扱いがなされているからである。

七、 児童扶養手当は防貧的給付ではない

第六に、原判決は、手当を防貧的なものであつて、憲法第二五条第一項の保障には直接関しない旨判示する。右は憲法第二五条についての信じ難い曲解に基づくものである。この点については既に詳述するところであるので、ここでは手当の性格につき、それが所得水準による支給制限によつて生活保護法の適用をうけるかどうかのボーダーラインにある母子家庭の扶助という機能を担い、一面で生活保護法の扶助に近い性格をもつていることを指摘するにとどめる(荒木前掲書三二〇頁・三二三頁参照)。

第六、原判決には、憲法一三条の解釈、適用を誤まり、かつ判断遺脱・理由不備の違法がある

原判決は、「本件併給禁止は個人主義にもとるなどとは到底いい得ない」ので、併給禁止は憲法一三条に違反しないという。しかし、右は憲法一三条の解釈を誤つたばかりでなく、上告人の主張に対する判断を遺脱し、判決に理由を付さない違法がある。

すなわち、上告人は従来、本件併給禁止が憲法一三条に違反する理由として、児童扶養手当は児童の心身の健やかな成長に寄与するために支給されるものであるのに、この目的とは全く関係のない母が障害福祉年金を受給しているという事実により、同手当の受給資格を奪う本件併給禁止条項は、児童を個人として尊重しないものであり、憲法一三条に違反する、とのべ、合理的理由もなしに、児童扶養手当の受給資格を奪うことは、国民を個人として尊重せず、ならびに幸福追求の権利を侵すものであり、憲法一三条に違反すると主張したのであつた。

しかるに原判決は、憲法一三条が個人の尊厳ならびに幸福追求権を定めたものであることを看過し、単に「個人主義」の問題であるとして、同条の解釈を誤り、かつ、上告人の主張に対して判断をなさず、かつ判決に理由を付さなかつた。

右違法は民事訴訟法三九四条及び同三九五条第六号に該当し、原判決は破棄を免れない。

補充書、再補充書〈省略〉

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